鎌倉幕府滅亡の大きな鍵を握った赤松円心は討幕の「第四の英雄」!の画像
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 鎌倉幕府は、足利尊氏(当時は高氏)が元弘三年(1333)五月七日に六波羅探題を落としたあと、上野国で挙兵した新田義貞に二一日に鎌倉市中に攻め入られ、得宗家(執権を世襲する北条氏惣領家)当主である北条高時が一族や家臣もろとも自刃して滅んだ。

 その発端は前号で触れた通り、得宗家の御内人だった長崎氏一族の専横を嫌った御家人たちが、「得宗専制」政治に不満を爆発させたため。

 そして、尊氏と義貞の両雄に、千早城(大阪府千早赤阪村)などで幕府軍を苦しめた楠木正成を加えた三人が幕府討幕の英雄とされるが、忘れてはならない“第四の男”がいる。それが後に播磨守護となり、子孫が播磨、摂津、備前の有力守護大名として栄えた赤松則村。入道して円心と号し、以降はこれで統一する。

 その円心の家系は村上天皇にまで遡るとされ、正確な史料で確認することができない一方、播磨国の西に佐用荘という荘園があり、その地頭職に任じられた一族の中に、赤松の地名を氏名に称する者が現れた。その佐用荘の南に赤松村(兵庫県上郡町)があり、播磨西部の小勢力だった赤松氏の四代目が円心で、若い頃の足跡を都で確認することができることから、幕府の御家人として六波羅探題に仕えたと思われる。

 そんな播磨の小勢力に当時、討幕を図る後醍醐天皇の皇子(大塔宮護良親王)が比叡山延暦寺の天台座主となり、円心の命だろうが、三男である赤松則祐が比叡山に登り、その側近となったことから好機が到来する。

 ところが、後醍醐天皇の企てがいったんは失敗し、隠岐に流されたことで、則祐は討幕を呼び掛ける大塔宮の令旨を持って播磨に下った。その令旨には元弘三年二月二五日に軍勢を率いて円心の居城である「赤松城(苔縄城ともいう)へ馳せ参ぜしむべし」とあり、こうして播磨の討幕勢力が彼の下に結集。円心がまず、隣国備前の三石城(岡山県備前市)に拠る伊東宣祐を国境の船坂峠で破り、その際に生け捕りにした二〇余人の捕虜を厚く遇したことで、伊東一族はその味方となり、同城で播磨に攻め入ろうとする西国の幕府軍を押し止める役を買って出た。

 こうして円心は播磨勢を率いて京に攻め上ることが可能となり、ここから彼の破竹の進撃がスタートする。まず、摂津の尼崎に進んで摩耶山に入り、六波羅の幕府軍を山中深くに引き寄せ、足軽ら雑兵によるいわゆるゲリラ戦で彼らを敗走させた。次いで円心は京近郊の山崎に進み、野伏を使って幕府軍を撹乱。こうした点は千早城で幕府軍を翻弄した楠木正成の戦術を彷彿させる。

 こうした中、赤松軍は濁流が渦巻く桂川を強制渡河して幕府軍の肝を冷やし、逃げ去る一行を追うように洛中に入った。

 だが、東山の蓮華王院(いわゆる三十三間堂)付近の戦いで幕府軍に敗れ、一度は山崎に退き、そこに北条一族の名越高家と足利尊氏(妻が北条一族)が大軍を率い、討っ手の大将として鎌倉からやってきた。

 円心は久我縄手(京都府長岡京市付近)の湿地に陣し、三〇〇〇騎の兵で七〇〇〇騎の名越軍を破り、大将の高家を討ち取った。

 すると、鎌倉方のもう一人の大将である尊氏は名越軍が敗れたのを見て、領地のある丹波に入り、篠村八幡(同亀岡市)で討幕の覚悟を将兵に示す。

 ちなみに、織田信長を討つ明智光秀が「敵は本能寺にあり!」と言ったとされる老ノ坂はその近くで、時代は逆転するが、その伝承をまねるなら、尊氏が、「敵は六波羅にあり!」とでも言ったかもしれない。

 いずれにせよ、六波羅探題は足利軍と赤松軍などの前に陥落。円心が戦上手であることもさることながら、彼が破竹の勢いで京に迫り、さらに討っ手の大将である名越高家を討ち取ったからこそ尊氏は討幕に踏み切り、そうした意味で円心が果たした役割は大きい。

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