特集「戦国武将の父」【上杉謙信編】越後の龍に遺る為景の合戦DNAの画像
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 武田信玄の父である信虎が家督を継ぐ一年前のこと。のちに、その信玄と竜虎相搏つことになる上杉謙信(長尾景虎)の父の長尾為景も、越後守護代家の家督を継いだ。

 彼は永正三年(1506)に急遽、父である能景の戦死を受けて、一八歳という若さで家督と守護代を継承。すると、あろうことかこの翌年に当時、越後守護だった上杉房能を追放したうえ、自害に追い込んだ。

 上杉家は室町幕府の祖である足利尊氏の正室・清子の実家である一方、房能の実兄が関東管領の上杉顕定という名門。にもかかわらず、為景は守護代に就くと同時に下剋上に乗り出した。府中(上越市)の館を囲まれた房能は実兄の関東管領を頼ろうと、わずかな兵を率いて松之山(十日町市)に逃れたものの、永正四年八月に天水越で自害した。

 とはいえ、いくら下剋上の世でも一〇代の青年がいきなり名門一族の守護の追放を画策することは考えづらい。『関東管領九代記』によると、房能は当初、家臣の讒言で為景を討とうとしたものの、やがてこれが彼の知るところとなって、先手を打ったとされている。

 為景は実際、房能の館を包囲するに当たり、その養子である定実を擁した。むろん、定実の側に立てば、養父の行動に不審を抱いて、その対立相手を支持したともいえる。

 だが、歴史家である西股総夫氏によると、彼は房能の正当な後継者であり、為景が傀儡にしようとしたのであれば、もっと傍系の人物を担ぎ出したはずとされる。

 いずれにせよ、守護代が守護を殺した事実に変わりはなく、為景が房能の自害から二日後、その葬儀を営むと、越後の国衆らの一部がすぐに弔い合戦を口実に挙兵。

 実の弟を殺されながらも関東で反乱が起きたために動くことができなかった兄の顕定も、二年後の永正六年(1509)七月に大軍を率いて越後に進軍し、遅ればせながら弔い合戦に乗り出した。

 こうして為景に危機が迫り、彼は以降、まさに戦いに明け暮れた生涯を送る。

 実際、争乱が繰り返された時代に生まれた謙信が後に、「漢の高祖は生涯に七〇余回戦ったというが、父は在世中、一〇〇余戦に及んだ」と述懐した通り、彼が戦いの申し子となったのは、父の影響が大きい。

 ともあれ、為景は守護の定実を伴い、一度は府中を捨てて越中から佐渡に逃亡したものの、ここから巻き返しを図る。

 すると、越後国内の国衆の中から定実と為景方に寝返る者が現れて、房能の兄である顕定は永正七年(1510)六月、長森原(南魚沼市)の合戦で討ち死に。その軍勢には顕定の養子である憲房も同行していた。彼は居城の上野白井城(沼田市)に逃げ帰り、長尾家が歴代、上杉家に仕えたことから、「家郎(家臣)の分際で二代にわたり主人を殺すとは、天下広しといえども聞いたことがない」と嘆いた。

 なお、その憲房の実子である上杉憲政は、関東の支配を狙う北条氏康に追われる形で、越後に逃れる。

 長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲り、こうして、上杉謙信が誕生することになるのだが、それはのちの話だ。

 さて、定実は顕定と房能の兄弟が葬り去られた頃から“お飾り”となり、国政が専ら為景に委ねられたことが不満だったようで、永正九年(1512)以降、二人の争乱が本格化。定実がその最中に一時、為景の居城である春日山城(上越市)を留守中に奪ったことから、その後に包囲されて幽閉される事件も起きた。

 こうして越後の国衆は守護と守護代の双方に分断。結果、定実方の宇佐美房忠が討ち死にしたことで、争乱は為景方の勝利に終わり、彼は享禄元年(1528)、一二代将軍の足利義晴から毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許された。これはもともと守護に与えられるもので、為景が幕府に事実上の守護と認められた背景にむろん、彼の“賄賂攻勢”があったことは間違いない。

 その後、享禄三年(1530)一月に為景の末子として謙信(幼名・虎千代)が生まれると、同年一一月には新たな争乱の幕が開く。

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