■謙信のその後の活躍は父である為景のお陰!?

 守護である定実の一族の上条定憲が反・為景の旗を掲げて挙兵し、越後はまたしても二派に分かれて争乱に突入。謙信は前述の通り、こうした空気を嗅ぎながら成長していった。

 この争乱では長尾一族からも上田衆と呼ばれる者らが定憲方となる一方、奥羽の伊達家なども介入する気配を見せたことで、為景は嫡男の晴景に家督を譲る形で事態の収束を図った。

 こうして為景は天文一一年(1542)、波乱の生涯に幕を閉じた。享年五四。

 その後、息子の謙信が強固な政権を築くことができたのはやはり、戦いに明け暮れた父である為景が生前、越後の地ならしをしていたことが大きい。

 かつて越後はあちこちに火種が残されていたが、為景が特に永正年間の争乱(越後天正の乱)でライバルである国衆らを粛清したことで、戦乱を通じながら一つにまとまりつつあったためだ。

 最後に、その謙信についても簡単に触れておきたい。その兄である守護代の晴景は武将としての器量に欠け、栃尾城(長岡市)にいた謙信が国衆らの信望を集めて春日山城に入城。兄に代わり、その養子という形で守護代を相続した。父の為景と同じく一〇代だった。

 そして、天文一九年(1550)に守護の定実が亡くなると、謙信はやはり父と同じく、幕府から毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許され、事実上の越後の国主となったのだ。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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