崔洋一
崔洋一

 日本芸能史に残るレジェンド俳優はどんな人物だったのか。公私にわたり親しかった映画監督が証言する!

 1989年11月6日、俳優・松田優作さんが40歳の若さでこの世を去った。それから約1年後、故人がアニキと慕っていた原田芳雄さん(享年71)ら、映画界、音楽界の仲間たちが手弁当で集まり、追悼コンサートを行った。長らく封印されていたその“幻のライブ映像”が、このたび初めてDVD化された。これにちなみ、同ライブの構成・演出を手掛けた映画監督の崔洋一氏(70)を直撃。松田優作さんについて語ってもらった。

「優作とは、同い年であり、偶然なんですが、家が近くだったんですよ。歩いて2分の距離で。そういう意味で、ジャージに半纏をはおったつきあいなんです」

【崔監督による松田優作のエピソードは以下の動画でご覧ください!】

https://youtu.be/_68UBHDjN94

 崔監督は、チーフ助監督を務めた『最も危険な遊戯』(78年)以後12年間、優作さんと親しい関係だった。たまたま家が近所で、別の街に引っ越してからも、その近くにまた優作さんが引っ越してくるという偶然も。そんな間柄だけに、その口からはほほ笑ましい逸話が次々に語られる。「龍平(長男で俳優の松田龍平)たちが通っていた保育園がウチの真ん前だったんです。それで、帰りに子どもたちがウチに来て、おやつを食べて昼寝したりして。だから“引き取りに来いや”なんて優作に電話してね」

 まさに、ご近所づきあいだったのだ。「“メシを食わせてやる”って彼の家に呼ばれて、自慢のヤキソバをご馳走になることもありましたね。“どうだ、うまいだろ?”って。まぁ、人を呼んでおいて、ヤキソバはねえだろって思いましたけどね(笑)」

 ある正月の出来事も、強く印象に残っているという。「美由紀(優作夫人で女優の松田美由紀)が、子どもを連れて帰省したので、優作はさびしい正月を迎えたんです。それで、元日に電話がかかってきて“何してる?”って言うから、“静かな正月を過ごしているよ”って答えたんです。そうしたら、“今から行くからよ”って。10分もしないうちに“ピンポ~ン”って来てね。腹減ってるっていうから、食べて飲んで。特に何かをしたわけじゃないんですけどね」

 翌日も、優作さんは暇だった。「1月2日も電話が来て、“おお、何してんだ”、“だから、静かな正月を過ごしてるって言ってんだろ”、“今から行くからよ”って、まったく同じことの繰り返しですよ。なにしろ、歩いて2分ですから」

 そして、3日目は少しだけ状況が変わった。「3日は、ウチで僕が監督した映画のキャストとの新年会があったんです。そうしたら、それに出ていた石橋凌が、“新年会があるんですけど、優作さんも来ませんか?”って電話をしちゃったらしいんです」

 優作さんの初監督作『ア・ホーマンス』(86年)で俳優デビューした石橋の立場上、当然の行動だった。「そうしたら、優作から電話が来て“おまえ、新年会やるらしいじゃん。俺は行かないほうがいいわけ?”なんて、ひねくれたこと言うわけですよ。結局、その日も来てね。もっとも、他のキャストは、みんな緊張してましたけど」

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