■仲がよかった水谷豊に言わせると
崔監督と優作さんの関係は、どこかクールにお互いを突き放した印象がある。「人前に出るときは、監督と著名な俳優を、お互いに装うんですよね」
また、優作さんのアーティストとしての人との関わり方については、こう分析する。「『最も危険な遊戯』『探偵物語』、そして『家族ゲーム』。それからはちょっと置いて『ブラック・レイン』という流れは、優作の変化の歴史なんですよね。アクションスターとしてスタートした優作が、俳優として、そこを脱却したいというのはあったと思います。だから自分の変化のために、周囲の人の知恵や存在を活用したり、周りの人間自体をチェンジしたりしてきた。でも、それを悪いこととは思わないですね」
そして、『ブラック・レイン』後の優作さんは、新たな変化を求め、米国移住を考える。だが、すでに病が体を蝕んでいた。「遺体にはその日のうちに会いました。ただ、あとで聞いたら“(病気のことを)崔には言うな”と言っていたらしいんです。それは分かるんですよね。特に熱き友情という仲じゃない。互いに立ち入らない関係で、観察者的なところがありましたから。なにしろ、僕は見舞いにも行っていない」
ただし、健康状態の悪化については薄々、気づいてはいたようだ。「血尿が出たりという、悪くなっていく過程の前段は知っていました。何か思うところがあったのか、最後の出演作である『華麗なる追跡』(日本テレビ系)の前に、“一緒に写経をやろう”って誘われたんです。“心が落ち着くぞ。おまえみたいな乱暴なヤツにはピッタリだ”ってね。“それは、おまえのことだろ”って思いましたけど(笑)」
一定の距離を保ちながらも、やはり監督にとって優作さんは特別な存在だったようにも思える。「う~ん。特別な存在とも違う……不思議な関係ですよね。優作と非常に仲がよかった豊ちゃん(水谷豊)に言わせると、2人でいるときは、よく僕の話をしていたらしいんです。推察するに、きっと“あの崔のバカがよ~”って悪口を言っていたんでしょうね」
名監督は屈託のない笑顔で、そう語った。
【崔監督のインタビュー・ロングバージョンは、以下の動画でご覧ください!】
さいよういち 1949年7月6日生まれ。78年に松田優作主演の『最も危険な遊戯』のチーフ助監督を務める。83年に内田裕也主演『十階のモスキート』で映画監督デビュー。以後、数多くの作品を世に送り出し、『月はどっちに出ている』(93年)、『血と骨』(04年)は数々の映画賞を受賞。
『CLUB DEJA‐VU ONE NIGHT SHOW 松田優作・メモリアル・ライブ+優作について私が知っている二、三の事柄』作品ホームページ
https://www.toei-video.co.jp/special/matsudayusaku-dejavu/