■荒井注の脱退で正式メンバーになったが

 このとき、『〜全員集合』の高視聴率で不動の人気を獲得していたドリフに、一つの事件が起きていた。荒井注(享年71)が脱退を希望していたのだ。「当時は、カトちゃんの『ちょっとだけよ』とか、荒井さんの『ディス イズ ア ペン』が大人気で、小学生は全員が『〜全員集合』を見ていた。そんな時代に荒井さんが抜けるとなって、『どうなっちゃうんだろう?』と、みんな思っていたんですね」(西条氏)

 そんなタイミングだったことから、いかりやは、志村を見習いメンバーとして『〜全員集合』に出演させることにしたのだ。73年末のことだった。〈志村けんがコメディアンとして本当に苦労するのは、これからの2年間である。(中略)必死になればなるほど、客の反応は冷たく、空振りに続く空振りだった〉

 正式メンバーになってからも状況は変わらず。その間、『〜全員集合』の視聴率は、裏番組の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)に抜かれた。〈この『欽ドン』攻勢を打ち破ったのは、なんとそれまで長いトンネルを抜けきれなかった志村である〉

 76年3月6日、「少年少女合唱団」のコーナーは、ゲストが出身地の民謡を披露するという趣向だった。『俺にも歌わせろ』と志村が出てくる。『お前はどこの出身だ』といかりや。『俺は東村山だよ』。『知らねえなあ、そんなとこ。だいたい、そんな東村山なんてところに、民謡なんてあるわけないだろ』『それがあるの、ちゃんとある』〉

 そして志村が披露した『東村山音頭』は、会場に爆笑を生んだ。〈ドリフターズでボーヤ生活を始めてから8年。ようやくコメディアンとして世に認められたわけである〉

 以後、全国のお茶の間が毎週、『東村山音頭』を心待ちにするようになった。志村が、次にブレイクさせたのが、加藤とのコンビによる「ヒゲダンス」である。これは、宴会芸としても重宝された。〈79年暮れから新年にかけて、あらゆる催し物を総なめにした印象があった〉

 ところが、放送されていたのは意外に短く、2年に満たない。〈爆発的ヒットで一番苦しまなければならなかったのは、本人たちだった〉

「ヒゲダンス」は、踊るだけではなく、毎週、曲芸的なパフォーマンスを披露するのが決まりだった。そこで毎回、何をやるかを考え、その芸をマスターするのが一苦労だったのだ。〈会議で絞ったアイデアをベースに、志村と加藤が汗みどろで実験を繰り返す〉

 さすがに長くは続けられなかったようだ。しかし、その直後に今度は、「カラスの勝手でしょ」を大流行させるのだからすごい。『〜全員集合伝説』を読むと、志村がお笑いに対しては常に真剣だったことがよく分かる。

 そして、それは大御所になっても変わらなかったようだ。西条氏は、ナンセンスなコントに一生こだわり続けていた志村のプロ意識の高さについて、こうコメントする。「後輩タレントを連れて飲みに行っていたのも、番組や舞台での共演を前提にして、呼吸を合わせていた部分もあった。また、新鮮な力になってくれる人を常に探していた。すべて、コントにつながっていたんだと思います」

 プロ意識の塊だった志村。今頃はあの世で、いかりやや居作プロデューサーと再会し、新しいコント番組の企画を思案中かもしれない。

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