【ニッポン古代史の反乱】ヤマトVS九州豪族「磐井の乱」の首謀者の画像
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 日本の歴史上、最初と最後の反乱はいずれも九州で発生した。うち、西郷隆盛ら旧薩摩藩士の明治新政府に対する不満が発端となった西南戦争(1877年)が、史上最後の反乱(内戦)であることは周知の事実だが、最初の反乱に関する詳細は意外に知られていないのではないか。継体天皇二一年というから、西暦で527年。この古墳時代に勃発した反乱の主役は筑紫君磐井。素性は定かではないが、日本が「百余国」(『漢書地理志』)に分立していたとされる時代、九州にあった一国の「王」の末裔だろう。

 そして、筑紫は後に筑前と筑後の両国に分かれることになるが、磐井の本拠は後者に当たる現在の福岡県八女市にあたり、ここにある岩戸山古墳の被葬者とされる。『筑後国風土記』によると、古墳の周囲には石人と石盾が交互に六〇枚ずつ並べられ、磐井の勢力圏が本州とは異なる独特の文化(石人文化)を育んでいたことも分かる。

 一方で、反乱には火の国(肥前と肥後)と豊の国(豊前と豊後)の兵も加わり、磐井はほぼ九州全土に号令することができる勢力だった。その一方、この事件には謎も多い。

 そもそもニッポンは弥生時代から古墳時代にかけて、ツクシ(筑紫)、キビ(吉備)、ヤマト(大和)の地域国家がそれぞれ「倭王」を擁立。これがやがて「大王」と尊称されるようになった。彼らは各豪族に推薦される存在で、継体天皇や欽明天皇の時代にようやく世襲されるようになった。つまり、磐井の反乱が起きた当時、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)で政務を執った継体天皇は倭王(大王)であるものの、世襲王権が確立するかしないか微妙な時代で、日本全土(中部・関東を含む)を一元的に支配するまでには至っていなかった。

 一方、地域政権の「王」は中央の大王から「国造」という官職を与えられて一定の独立性を保ち、ニッポンは当時、各地で群雄が割拠する時代だった。そして、そんなツクシ政権の王が「筑紫君」たる磐井だったと言え、その反乱は政府に対する反逆を意味する言葉であるものの、当時はヤマトに服していたとはいえず、推戴する大王の意見にただ従わなかっただけだろう。

 ところが、『日本書紀』がヤマトと磐井率いるツクシの軍事衝突を反乱と書き、それが定着した。日本書紀が編纂された奈良時代は天皇を中心に中央集権が進む時代だっただけに、天皇に従わない地方の豪族らの行動は反乱でなければならなかったのだ。

 ここで、以上を踏まえて日本書紀を基に事件の経緯を追ってみたい。継体天皇二一年六月、天皇は近江毛野臣という近江の豪族に六万の兵を率いさせ、新羅の勢力が隆盛を極める朝鮮半島への進軍を計画。当時、日本が権益を持つ任那(加羅諸国)の一部を奪った新羅から、その旧領を奪い返すことが狙いだった。

 ところが、「筑紫国造磐井、ひそかに叛逆をはかり」とあるように、磐井が毛野臣の軍勢の通行を妨げた。新羅を助けた理由について「(新羅が)ひそかに貨賄(ワイロ)を磐井」に贈ったとされる。だが、これは日本書紀の脚色とされ、磐井は、新羅が日本海に面する「環日本海」という交易のネットワークから親交すべきと考えたのではないか。

 一方、ヤマト政権が黄海に面する百済と関係を密にしていたことから、ツクシと朝鮮外交を巡る対立が背景にあったと言えるだろう。

 また、謎の一つに磐井が毛野臣に対し、「もともと我ら二人は伴として、肩を寄せ、肘をすりあわせ、同じ食器で食べた仲ではないか」と不満をぶつけるシーンがある。はたして継体天皇の近臣と言える毛野臣と磐井にどこで、そんな接点が生じたのか。その謎を解く鍵は稲荷山古墳(埼玉県行田市)にある。

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