二ッポン古代史の反乱「藤原仲麻呂の乱」の裏に怪僧道鏡の画像
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 古墳時代の「磐井の乱」や奈良時代の「藤原広嗣の乱」は、いずれも九州の豪族や民衆らが兵の主体となった。一方、「藤原仲麻呂の乱」は兵が全国から集められ、これこそが“正真正銘の反乱”とされてきただが、そうした通説がここにきて覆り始め、この歴史的事件の意味が見直されつつある。

 藤原仲麻呂は官職名を自身が好む唐風に改め、淳仁天皇から「ひろく恵む美」という意味で「恵美」姓を、「暴を禁じ、強に勝つ」という意味で「押勝」の名を与えられ、恵美押勝としても知られる。『続日本記』には天性聡く敏い人と記され、奈良時代に政権を担った藤原不比等の息子である藤原四兄弟の長男・武智麻呂を父に持つ。

 四兄弟が相次いで天然痘に倒れたことから一族ではない橘諸兄が政権を握る中、仲麻呂は三五歳だった天平一二年(740)に、藤原広嗣の乱の発生に動揺した聖武天皇の東国行幸に、将軍として同行。同じ一族で叔母の光明皇后の後押しもあり、順調に出世を遂げた。

 とはいえ、太政官が当時、諸兄に握られていたため、仲麻呂は聖武天皇の譲位に伴い、皇后宮職(皇后の家政機関)を発展拡大させて紫微中台を創設し、天平勝宝元年(749)に、その長官(紫微令)に就任。

 こうした権限強化もあり、紫微中台はやがて太政官を抑えるようになり、同年には聖武天皇の譲位を受け、いとこに当たる女帝・孝謙天皇(聖武天皇と光明皇后の娘)が即位。仲麻呂は後に彼女と対立することになるものの、当初は即位がプラスに働いた。

 同七年(755)には聖武上皇が重病に陥ったことから、政権を指示されていた橘諸兄が失脚。彼が二年後の天平宝字元年(757)一月、失意のうちにこの世を去ると、仲麻呂は紫微令を紫微内相に改組して軍事権を掌握し、ここから八年間にわたって政権を担った。

 では、こうして一時代を築き上げた男は、その後になぜ、反乱の首謀者と貶められるようになったのか。

 その凋落の兆しは同四年(760)、最大の後ろ盾だった光明皇后が没したこと。さらにその二年後、孝謙上皇が自身の病気平癒に功のあった怪僧の道鏡を寵愛し、これを批判する淳仁天皇や仲麻呂との対立が決定的となった。

 こうした中、仲麻呂政権を支えた有力なブレーンが相次いで他界。次第に身内を要職に推すようになったことから朝廷内に反仲麻呂派が形成され、これが孝謙上皇と結びついたことで、政権は後半になって、その基盤が大きく揺らぎ始めた。

 さらにその後、近衛府(内裏の警護などを担う)となる軍事組織(授刀衛)幹部も反対勢力で占められたことで、これに危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字八年(764)九月二日、新たに都督兵事使という軍事組織を創設。畿内及び、周辺で兵を募る権利を得る。ただ、これだけでは不安だったのか、公文書を改ざんして兵の増強を図ろうとしたことが九月一一日、部下の密告によって発覚し、孝謙上皇はこれを「逆謀」と考えた。

 とはいえ、改ざんそのものが反乱とまでは言えず、実際、密告を受けた孝謙上皇はこの日、すぐに行動を起こし、淳仁天皇の御所にあった御璽(天皇が用いる印章)と駅鈴(駅馬使用の許可証)を奪取。『続日本記』は多くを語らないものの、上皇はこのとき、配下の者に天皇の身柄を押さえさせ、御所内に幽閉したものとみられる。

 前述の通り朝廷は当時、道鏡を批判する淳仁天皇と仲麻呂派、孝謙上皇と反仲麻呂派に二分されていた。上皇サイドが御璽と駅鈴、さらに天皇の身柄を奪って機先を制したことは、「官軍」となったことを意味する。

 当然、仲麻呂もその原則を承知し、配下に命じて御璽と駅鈴を奪い返そうとしたものの、その企てはあえなく失敗。仲麻呂はこうして兵を引き連れ、かつて国守を務めた近江に逃れて再起を期すことになった。

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