ジャンボ鶴田没後20年「番記者が語る」リング下の素顔の画像
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 ジャンボ鶴田さんが亡くなってから、はや20年。レスラー生活晩年から筑波大学大学院に通い、修士号を取得。引退後、新たな道を歩き出した最中の突然の死だった。今もって「最強説」が唱えられる鶴田の素顔を、『週刊プロレス』で番記者だった市瀬英俊氏が特別寄稿で明かす。

〈彼は日本人レスラーの中で史上唯一、外国人レスラーの感覚でプロレス人生を全うした人だ〉 さる5月13日、かつての私の上司であるターザン山本!さん(元週刊プロレス編集長)は、自身のツイッターで、こうつぶやいた。彼とはジャンボ鶴田さん。2000年の5月13日、鶴田はフィリピンで肝臓移植手術中に命を落とした。49歳、現役引退から約1年2か月後の死だった。

 山本さん言うところの「外国人レスラーの感覚」を私なりに意訳すると、「個人主義のプロレス」となる。1972年のミュンヘン五輪にレスリング日本代表として出場後、ジャイアント馬場の門下生となった鶴田。全日本プロレス入りにあたって「就職」という言葉を使ったのは有名なエピソードだが、鶴田にとって四角いリングは「職場」以外の何物でもなかった。

 試合とプライベートを明確に分け、試合という名の業務が終われば鶴田友美としての時間を大切にした。80年代後半にライバル関係を築いた天龍源一郎が、“24時間天龍”であり続けることで無数の酒席エピソードを残し、マスコミとも濃密な関係を築いたのとはあまりに対照的だった。

 言ってしまえばドライな生き方。天下獲りの野心を覗かせるわけでもない。エリートとして始まったプロレス人生、そのレールの上を破綻なく走行する乗客の少ない「ワンマンカー」。それが、かつての鶴田だった。

 私は記者という立場で、ときには挑発的な質問をぶつけ、鶴田の内面をあぶり出そうとしたが……次のように返されたことがある。「俺は俺のプロレスをやるだけ。それがイヤな人は、ファンになってもらわなくても結構」

 ゴーイング・マイウェイ。「鶴田を表紙にすると雑誌が売れないんだよなあ」が、山本さんの口癖だった。

 ところが、90年代の初頭。鶴田がワンマンカーにファンを意欲的に乗せ始めた。転機となったのは天龍ら所属選手の大量離脱。にわかに存亡の危機に立たされた全日本プロレス。鶴田はデビュー以来、初めて迷い込んだ深い谷底で、上を向いた。なりふり構わず泥臭く、ファンの声援を背に、谷から這い上がっていった。

 その過程で見せた三沢光晴らとの闘いは、私にとって「鶴田最強説」の論拠となっている。40歳を過ぎてもなお見せつけた無尽蔵のスタミナ、抜群の跳躍力。はたして、誰が相手であれば、鶴田を心身ともに疲弊させることができたのか。私には、いまだ答えが見つからない。鶴田に「勝てる」レスラーはいても、鶴田を「圧倒する」レスラーは、どこにいたのか。いやいや、鶴田は大したことないよ、と証言する関係者は少なくない。それもいいと思う。

 何より没後20年経過してもなお「最強論争」のターゲットになっているという事実が、「鶴田では雑誌が売れない」時代を知る者として感慨深い。人々の間で熱く語られ続けること。これもまた一流レスラーならではの素養である。(文中一部=敬称略)

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