「正長の土一揆」が全国に波及も…暴動ブーム終焉の裏に応仁の乱!の画像
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 正長元年(1428)、民衆による初の大規模な暴動の「正長の土一揆」が起きた。この一揆は時の政府である室町幕府に対するものではなかったため、厳密には反乱と呼ぶことができない反面、幕府の軍勢が出動したことから事態は一時、緊迫。民衆はなぜ、そこまで大規模な暴動を起こしたのだろうか――。

 日本では正長元年四月頃から三日病みという感染症が古今未曽有の猛威を振るい、死者が続出した。三日病みは一説にはインフルエンザとされ、年代記である『神明鏡』に「当年飢饉、餓死者幾千万」とあるように、疫病と飢饉によって民衆の不安は増大。奇しくもこの年の一月と七月、それぞれ将軍と天皇が代替わりしたこともあり、こうした期待感と不安が複雑に入り交じるようになった。

 すると、かつて鎌倉幕府が困窮した御家人の借金を棒引きするために発令した「徳政」が次第に求められるようになり、庶民は“借金をチャラ”にすることを要求。むろん、現代の感覚からしたら、考えられないことだが、当時は将軍や天皇の「代始」を機に、それまでの関係を清算することができると考えられたようだ。

 こうした中、誰が暴動の中心役を担ったのかは不明だが、近江の馬借や「地下人」「土民」らが八月、一斉に徳政を求めて立ち上がり、酒屋や土倉を襲撃した。酒屋は文字通り酒造業を営み、その稼ぎを元にして高利貸しに加え、今で言う質屋の土倉を経営した当時の“金融機関”。

 翌九月にも山城国醍醐(京都市山科区)で襲撃が発生し、醍醐寺の座主・満済が「醍醐の地下人らが徳政と号して蜂起し、武力で(酒屋や土倉を)脅して借用書を出させて焼いた」としたように、細川家や赤松家といった幕府重鎮の軍勢が、現地に駐留して警戒する事態にまで発展した。

 だが、九月中に京都市街で一揆が発生すると、翌一〇月にはなんと、騒動が貴重な文化財にも飛び火。幕府軍が警戒に当たる中、土民らが街に火を放ち、「踊り念仏」で知られる空也上人ゆかりの御堂が焼失した。

 これは『続史愚抄』という史料に「諸家被官人、土一揆へ与くみすべからざるの由、下知すべくの由相触れる事」とあるように当時、幕府軍の兵に「一揆に加わるべからず」という触書が出されていたにもかかわらず、彼らが騒ぎを鎮圧するどころか、むしろ、これに荷担したことを示している。

 こうした中、一一月には一揆勢が東寺に陣取って下京付近に出没するようになり、寺院を占領して要害となし、ここをいわば砦代わりに、酒屋や土倉を襲い始めた。

 さらに、奈良でも馬借や土民が蜂起し、般若寺(奈良市)を占拠して、かがり火を焚き、大和国の守護権を持つ興福寺の僧兵や傘下の国衆の軍勢と戦うと、続いて南の長谷寺(桜井市)付近でも一揆が発生。興福寺が相次ぐ一揆の発生に根負けして大和一国に徳政令を発布すると、神戸四郷(奈良市柳生町)の民衆は柳生街道沿いにあった地蔵尊の石に、「正長元年より以前の負目(借金)はあるべからざる」と銘文を刻んだ。事実上の勝利宣言である。

 その後、正長の土一揆の影響は近江、山城、大和から他の地域に波及。春日大社の関連史料によると、「伊賀・伊勢・宇陀・吉野・紀国・泉国・河内」(一部、大和国を含む)でも民衆が蜂起し、「日本国残りなく徳政」を求めるようになったという。

 当然、一度、火が点いた民衆のパワーはとどまることを知らず、徳政一揆は以降、ある種のブームとなった。

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