■民衆は応仁の乱のあと“足軽”に姿を変えた

 永享元年(1429)の播磨、丹波、伊勢、大和宇陀、摂津多田に続き、同四年には大和で年貢免除を求める動きが表面化し、翌年には近江の馬借がまたしても蜂起。

 さらに嘉吉元年(1441)八月には、京都で大きな徳政一揆が起きる。「嘉吉の徳政一揆」だ。

 正長の土一揆が、足利義教が将軍に就いた「代始」を機に発生した一方で、その彼が嘉吉元年六月、赤松満祐に暗殺(嘉吉の変)され、嫡男の足利義勝が七代将軍に補任されると、同年八月に京都周辺で数万人が蜂起。同月末に清水坂付近で民衆と幕府の侍所の兵が衝突した他、京都中で一揆が同時多発的に発生した。

 だが、これだけ勢いのあった土一揆も、不思議なことに応仁の乱(1467~1477年)が起きると、沈静化。さしもの民衆パワーも戦乱には勝つことができず、その犠牲となるしかなかったのか。

 実は一揆の主戦力となった民衆はどうやら、応仁の乱の発生とともに歴史に登場する「足軽」に姿を変えたようだ。当時、一条兼良という公卿が書いた『樵談治要』という政治指南書に、「このたび、はじめて出で来たれる足がるは超越したる悪党なり」とある。

 彼は続けて足軽の悪党ぶりを記し、洛中洛外の至るところで打ち壊しや放火、略奪行為を繰り返したというように、一揆の当事者となった民衆の一部は農村や都市を飛び出し、あぶれ者(いわゆる浮浪の徒)となったのだ。

 実際にたとえば、京の八条に馬切衛門太郎というあぶれ者がいた。馬切は渾名だろう。「馬を切る」ほどに暴れ者だった彼は八条の村を追い出され、応仁の乱が勃発してしばらく経った頃、足軽大将になっている。

 つまり、土一揆の蜂起はある意味、のちに訪れる戦乱の時代の序曲だったと言える。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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