力道山、アントニオ猪木、ファイティング原田…格闘技レジェンド「魂の名言」の画像
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 闘う者だから生まれる独特の表現。命を賭して生きる男たちが口にした“言葉のエネルギー”をご堪能あれ!

 空手チョップで終戦直後のニッポンを元気づけた力道山が本誌に登場したのは、1963年19月17日号のインタビューコーナー『突如参上』だった。プロレス団体のみならず、高級賃貸住宅、飲食店、レジャー施設などを手広く経営していた当時38歳の力道山は、成功の秘訣を問われると、即答した。「“宵越しの金”は持たないということだろうな。入ってきた金は、一円でも多く倹約して、次の仕事に回すという意味サ」

 その答えは、まさにやり手実業家のそれ。「大金持ちだという世評について、どう思うか?」と問われると、マユをピクリと動かした。「大方、週刊誌あたりからウワサが流れるんだろう。実をいうと、毎月手形を落とすのに、追いまくられているんだ。本当だヨ」

 インタビュー時、新婚生活4か月で、翌春には子息誕生が控えていた。その話が記事に出たため、関西を旅行した際、女学生から「“恋愛結婚”なんですか」と聞かれたと話す力道山。「この頃の若い娘はみんな早熟なのかネ?」

 だが、このスーパースターが、その子をその手に抱くことはなかった。この2か月後、突然の凶行に襲われ、この世を去ったからだ。

 力道山の没後、日本マット界を背負ったのが、ジャイアント馬場アントニオ猪木の「BI砲」だった。新日本プロレスを立ち上げ、ボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリとの対決を控えた猪木(当時33歳)が登場したのは、76年6月24日号。“世紀の一戦”のため、本誌の取材前に渡米し、アリにギャラを前払いしたという。「それだけ向こうの契約が厳しいんだ。手付じゃなくて前金ですよ。全額です」

 金額は、なんと600万ドル(18億3000万円)。猪木が「みんなが一番不思議に思ったのは、なぜアリがこの試合を承認したかちゅうことだったんだけど、まずはお金」と話すのも、うなずけるところだ。また、アリが日本人を侮蔑する発言をしたことで、闘魂はさらに熱く燃え上がっていた。「“ジャップ”って言葉は、人間じゃないみたいな表現の仕方なんですね。(中略)日本国民を馬鹿にするなら、オレは、それだけの覚悟で腕でもなんでもへし折ってしまう! そこまでやらなきゃおさまらん」

 猪木が率いた新日本プロレスでは、80年代半ばに離脱者が続出。長州力ら多数のレスラーが全日本プロレスに事実上の移籍をした。

 86年1月20日号で全日本の総帥・ジャイアント馬場(当時47歳)は、そうした状況をクールに語った。「向こうが勝手に分裂して、長州や(ラッシャー)木村たちがこっちに来た。流れがオレのほうに向いてきたということで、こっちが動いたわけじゃない」

 この年、寅年で年男の馬場は、自身の“守り神”についても語っている。「(運勢学で)オレの守護神はサルだというんで、ガウンの裏には必ずサルの絵を描いてある」

 BI砲後のマット界の旗手、前田日明(当時37歳)は、96年4月15日号『パンチ佐藤の対談お願いシマッすっ!!』に登場し、驚きの酒量を明かした。「ウイスキー2本あけて、ワイン1本やってから、日本酒って感じかな」

 その酒量には、パンチも「え、マジすか?」と愕然。さらに前田は、若き日のヤンチャ武勇伝も明かす。「朝8時まで六本木で飲んでて、(六本木にあった)防衛庁の前まで競争してみたり」 アキラ兄さんの日常が垣間見える対談だった。

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