■信長が法華宗の体質をかねて警戒していた!

 また、『信長公記』に浄土宗の僧が早口だったとあり、法華宗の僧が正確に聞き取ることができず、それが誤解を生んだという説もある。

 むろん、以上の可否もさることながら、今回のテーマは論争があくまで、信長によって仕組まれた宗教弾圧事件であったかどうか。『安土宗論実録』によると、「(宗論を見学に来た僧は)二、三千もの数で法華宗を取り巻き、法華宗は籠の内の鳥のようだった」という。

 当然、法華宗側の史料のために鵜呑みにはできないが、そもそも宗論の会場だった浄厳院は浄土宗の寺。法華宗はいわば“完全アウェー”の状態だったのだ。

 こうした中、信長は宗論後、ただちに安土城から浄厳院に向かい、浄土宗の僧らに褒美を与えるとともに前述の通り、法華宗側を厳しく処罰。こう見ると、仕組まれた政治的弾圧事件の臭いも漂うが、そもそも空蝉という茶杓を欲っした信長が断られて恨みを抱いたという話は、主に法華宗側の史料に基づく話だ。

 法華宗の僧が当時、他宗派の僧に宗論を挑んではうち負かす例が他にもあり、『信長公記』にも「法花(華)衆は、口の過ぎたるもの」とある。

 つまり、今回の宗論も在家信者の塩売りが、辻立ち説法中の浄土僧に嚙みついたことが原因で、信長がそうした法華宗の体質を嫌った面があったことも確かだろう。かといって、論争が最初から仕組まれていたわけではないだろう。

 信長は事を荒立てないように周旋すると両宗派の仲介を買って出たが、法華宗側は申し出を蹴った。当然、信長も面白くない。宗論で法華宗が勝ったのであればまだしも、それが浄土宗側の罠だったかどうかはともかく、惨めな負け方をした。そら、みたことか……という信長の感情が厳しい処罰に繋がり、かねてより法華宗の体質を警戒していたから、この機に弾圧しておこうと考えたのではないか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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