坂本龍馬と薩長盟約実現に奔走! 中岡慎太郎「“暗殺前”日記の中身」の画像
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 幕末の志士である武市半平太が旗揚げした「土佐勤王党」で、坂本龍馬とともに四天王の一人に数えられる中岡慎太郎。二人は同じ土佐の出身で、薩長盟約の実現に奔走し、京の近江屋で揃って刺客に襲われて命を落とした。

 だが、龍馬の生家が豪商から郷士に成り上がったのに対し、慎太郎は大庄屋の出身で、前者が口達者なイメージが強い一方、後者は至誠剛直と評されたように、実際は似ているようで似ていない。

 また、幕末も押し迫った頃に土佐藩が二人の人脈を生かそうと、龍馬に組織させたのが「海援隊」で、慎太郎の場合は「陸援隊」。思想的にも前者が大政奉還派で、後者は武力討幕派だ。はたして慎太郎の功績は何か。彼が残した日記を中心に探ってみたい。

 慎太郎は天保九年(1838)、土佐東部の室戸岬に近い北川郷の柏木村で生まれ、「高知三奇童」の一人といわれた間崎哲馬に学問を教わる一方、武市に剣術を学んだ。

 その後、二〇代前半で近在の庄屋の娘を妻に迎えると、まもなく土佐勤王党に加盟。当時は尊王攘夷の真っ只中で、慎太郎はこうした中、志士として動き始める。

 文久二年(1862)九月、武市が京で朝廷に、幕府に攘夷決行を促す勅使の派遣を建言し、のちに太政大臣となる三条実美に決定。土佐藩主の山内豊範がその警護で江戸に参勤することになったため、土佐勤王党の面々が同行した。

 だが、慎太郎ら国元の同志は勅使の供という栄えある役から漏れ、その悔しさから勝手連的に五十人組を結成。同年一〇月に高知を発ち、京を経て翌月に江戸に入った。当時、長州藩も幕府に攘夷の決行を迫っていたことから、慎太郎は藩士らと交流していたのだろう。

 だが、翌文久三年、攘夷派と対立する公武合体派の巻き返しが始まる。土佐の前藩主だった山内容堂はそもそも公武合体派で、土佐勤王党に対する締めつけを強化。公武合体派が八月一八日の政変で長州藩を京から追い落とし、三条ら攘夷派七卿も長州に落ちると、翌月には武市が捕らえられ、容堂による弾圧が強まった。

 当時、藩の役職である徒目付に就いていた慎太郎は、長州藩領の三田尻で七卿に拝謁するなどしたが、弾圧の手が迫ったため帰藩。その後、一〇月に脱藩して三田尻に入った。

 そして、龍馬が再び脱藩後、江戸の幕臣勝海舟の門下となって海軍の建設に突き進む一方、慎太郎は以降、長州藩とともに歩み始める。

 だが、慎太郎は元治元年(1864)七月、長州藩が巻き返しを図るため、蛤御門の変を起こして賊軍になった際、戦いに参軍して負傷。

 やがて、幕府の長州征討(第一次)が実行されたが、長州が恭順の意を示したこともあり、征討軍参謀西郷隆盛(薩摩藩士)らの策によって処罰は穏便に済まされた。

 この頃、慎太郎は寺石貫夫という変名を使い、当時は大島と称していた西郷と豊前小倉で会ったという記録が残っている。

 こうして慎太郎は長州藩のみならず、薩摩にも人脈を広げ、これが薩長盟約の実現に奔走する際の財産となった。

 ちなみに当時、慎太郎は『海西雑記』という日記を残し、慶応元年(1865)一月二九日付の記述には、「吉井(幸輔)、大久保(利通)」らと面談したとあり、吉井から猪の肉が送られてきたとある。

 その後、慎太郎は生まれて初めて蒸気船(薩摩藩船籍)に乗り、下関にいたかと思えば、京、さらに鹿児島と、まさに東奔西走した様子が日記から読みとれる。

 次に慎太郎が日記(『行行筆記』)を綴ったのは、すでに薩長盟約が成立したあとの慶応二年(1866)一一月一六日になってから。

 翌年の一〇月に大政奉還が実現し、幕末の動乱もいよいよクライマックスを迎えた頃だ。

 日記から彼の動きを追うと、相変わらず忙しい。大坂で年越しした慎太郎は元日早々、薩摩と長州藩士と天保山(大阪市港区)で薩摩藩船に乗り、下関で下船。長州藩士の高杉晋作を訪ね、宿に戻ると、訪ねてきた龍馬らと鶏鳴の時刻まで議論を重ねたという。

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