女流文学最高峰「源氏物語」の作者紫式部に「藤原道長の“愛人説”」!の画像
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 日本が世界に誇る女流文学の最高峰『源氏物語』は五四帖に及び、四〇〇字詰めの原稿用紙に換算すれば、実に約四〇〇〇枚という屈指の長編恋愛小説である。

 筆者である「紫式部」は出仕の際に名乗った通称である女房名で、一条天皇の中宮彰子に女官として仕えたときの名前。父である藤原為時がかつて式部丞に任官していたから「藤式部」が正式な女房名だったようだが、『源氏物語』が広く読まれるようになると、主人公である光源氏の正室「葵の上」の死後、正室格となった「紫の上」が有名になったことで、「紫」の名が冠されたといわれる。

 したがって、本名は不明。「香子」という説もあるが、定まらず、生年、かつ没年も諸説あり、ここでは、その研究の権威である今井源衛説に基づいて天禄元年(970)生まれにしておこう。

 父は権少掾として播磨国に赴任していたが、式部は京で生まれたとみられ、三年ほどで母が他界。彼女の文学的な素養や才能は、東宮(皇太子)の読書始の際に副侍読などを務めた父親譲りだった。

 そんな父は長徳二年(996)、越前守に任じられると、すでに当時、二七歳だった式部を伴って赴任。彼女にはこのとき、京に残る選択肢もあったが、なぜ、ここを離れてまで雪深い越前に行ったのか。

 そこには男性の影が見え隠れする。式部は当時、熟女と呼べる年齢になっており、のちに夫となる藤原宣孝から求婚されていた。

 だが、宣孝は式部だけでなく、近江の国の受領(地方官)だった源則忠の娘の元にも通い、要は“二股”。当時は「通い婚(主に男性が女性の住まいを訪ねて何日間か暮らす婚姻形態)」が中心で、むろん、今の浮気や不倫には当たらないものの、式部が妬心して「近江の方(則忠の娘)のところへ入り浸ったほうがよくはなくて……」という趣旨の歌を送った通り、恋人の浮気心に釘を刺すために京を離れたのだ。

 こうしたやり取りはさすが、恋愛小説の大家とも言え、彼女は長徳四年、宣孝が妻の一人と別れたために帰京し、彼と結婚。三〇歳で賢子という娘を授かったが、長保三年(1001)に宣孝が死去し、これもまた諸説があるが、シングルマザーになった彼女は三二歳の頃から『源氏物語』を書き始めたとみられている。

 そして、そのストーリーには再三、幼い娘が登場し、そうしたシーンになると、式部の筆が特に冴えたと言われるように、シングルマザーになったことが物語を紡ぐ動機だったの可能性もあるのではないか。

 一方、娘を育てるためには当然、働かなければならず、式部は宮仕えを決意。これも説が分かれるものの、娘が六歳になった寛弘二年(1005)の師走、三六歳だった式部は、かの藤原道長の娘である彰子に仕えた。

 彰子は冒頭で触れたように一条天皇の中宮で、彼女には先に入内した定子というライバルがいた。実際は彰子のというよりも、彼女と一条天皇の間の皇子を皇位に就けたい道長にとってのライバル。その道長は長兄の道隆と次兄の道兼が相次いで没したあと、前者の嫡男だった伊周と激しい権力争いを演じた末に彼を失脚させ、左大臣になった。

 のちの話だが、長和五年(1016)に彼の念願がかない、外孫の後一条天皇(一条天皇と彰子の間の皇子)の践祚とともに摂政となった。極めて権力志向の強い男である。

 むろん、式部が彰子の女房になるということは、雇い主はその道長。当時、定子の女房に才女の清少納言がおり、道長はいわばその文化サロンに負けないため、『源氏物語』で有名になりつつあった式部に白羽の矢を立てたともいわれるが、これもまた、史料で裏づけることができない話だ。

 一方、女房の主な仕事といえば、中宮の話し相手になることや衣食住の世話、娯楽の準備、外部との取次役などがあった。式部もむろん、こうした業務をこなしていたが、その文学的な才能からか、学問相手という仕事の割合が高くなっていったのだろう。

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