田原俊彦、歌って踊り続ける人間力「一番好きなことだから、40年も続けている」の画像
田原俊彦(撮影・弦巻勝)

 この世界を夢見て、高校1年の夏に、ジャニーズ事務所の門を叩いてから44年になります。でも履歴書を持って行ったわけじゃなくて、当時、六本木にあった事務所の前をウロウロして、無理やり声をかけてもらったんですね(笑)。そこから、「ウエスタンカーニバル」開催中の日劇で、社長だったジャニー喜多川さんにお会いして、レッスンの許可をいただきました。

 うちは、母と子ども4人という家族構成。父親が早く亡くなったので、生活は苦しかった。だから長男として“ひと旗揚げたい”という強い気持ちがあって、それがアクティブに自分を動かしたんだと思います。

 高校1年の秋からレッスンを始めてから3年間、今で言うジャニーズJr.的な活動をしていました。フォーリーブスのおりも政夫さんの付き人をやらせてもらいましたし、『とびだせ! パンポロリン』という子ども番組で体操のお兄さんもやりました。ただ、どれも楽しくて、下積みとは思ってなかったですね。

 ジャニー喜多川さんには、天塩にかけて育ててもらいました。そこから、『3年B組金八先生』(TBS系)という番組にめぐり会えて、1980年のレコードデビューにつながります。

 70年代後半といえば、ニューミュージックの人気がすごい時代。そんな中で、80年代のはじめに僕や松田聖子ちゃんがデビューした。そして、アイドルという“新しい風”を起こすことができたんじゃないかという自負はあります。

 僕らはタイミングにも恵まれていましたよね。この時代には、『ザ・ベストテン』(TBS系)、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)といった歌番組がたくさんあって、それが娯楽のど真ん中でしたから。そんな時代にデビューできて、テレビの中で暴れることができたのは、本当にラッキーでした。

 ただ、『哀愁でいと』という曲でデビューしてからの10年間は死ぬほど忙しかった。毎日、睡眠時間は3時間ぐらい。“ピンクレディーは毎日3時間睡眠だった”という伝説を聞いて、「ホントかなあ?」と思っていましたが、まさか自分がそうなるとは……って感じ(笑)。

 あの頃は、歌番組があって、映画にも出て、CMの撮影があって、コンサートもあって、雑誌の取材もいっぱいあった。それに、ラジオのレギュラーもありましたからね。『田原俊彦 8時のでいと』という番組から始めて、10年ぐらいはニッポン放送にずっと通っていました。

 当時は“田原がいないと番組が成立しない”というプレッシャーを常に感じていました。だから、仕事を投げ出すことなんてできなかった。

 でも、その頃の必死な10年があったから、ずっと変わらずに“田原俊彦”が継続できているのは間違いない。今でも毎年、シングル曲をリリースしているし、ライブやディナーショーを続けることができているのは、あの時代があったからこそ、です。

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