南北朝の英雄「二世の実像」【前編】足利尊氏の後継者は“ドラ息子”!?の画像
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 鎌倉幕府が滅亡したあと、「建武の新政」を始めた後醍醐天皇が、持明院統の天皇を担いで挙兵した足利尊氏と対立したことを機に、全国の武士が両派に分かれて争乱を繰り返す南北朝時代が幕を開けた。当時の武将としては北朝の尊氏、南朝の楠木正成や新田義貞が名高い一方、この三人の“二世”もまた、長い争乱中に歴史の表舞台に立ったのだった――。今回から3週にわたり、そんな彼らの光と影に迫ってみたい。

 まず、尊氏の三男であり、のちに室町幕府二代将軍となる足利義詮は元徳二年(1330)六月、幼名・千寿王として鎌倉で生まれた。母は尊氏の正室の登子で、兄二人がいずれも庶子だったことから足利家の後継ぎとして嘱望されたものの、成人したあとには、尊氏の留守中に三度、京の都を預かる大任を仰せつかったにもかかわらず、いずれも都落ち。とはいえ、『鎌倉公方記』の「ただ好色を事とし、大酒を専らにして、歌道遊興に心を傾け、政道の事は、ほかになし給ひければ、世の人疎み奉りけり」という酷評通りのドラ息子だったならば、室町幕府が一五代にわたり、足利の世は二五〇年も続いただろうか。

 義詮は三歳の頃、父が鎌倉幕府の六波羅探題を攻め落とそうとした際、家臣に連れられて鎌倉を脱出した。

 その後、上野国で挙兵した新田義貞軍に合流し、幕府滅亡後もここに留まり、北朝の年号で貞和五年(1349)に一九歳で初めて京の地を踏んだ。その契機は足利家の内訌(うちわもめ)で、当時、尊氏の弟である直義と足利家の執事だった高こうの師直の確執が表面化。直義は兄に迫って師直の解任に成功したが、逆襲に遭って京の邸宅を襲撃されると、女装して尊氏邸に逃げ込み、ここも包囲され、最終的に政務から身を引くことなどを条件に囲みが解かれた。

 当然、師直のクーデターにも映るが、本当の黒幕は征夷大将軍だった尊氏。当時の公卿の日記には「大納言(尊氏)と師直、かねて内通」と書かれ、二人が仕組んだ出来レースだったことが分かる。いったい、なぜか。

 この頃、幕府の政務は直義が掌握し、子宝に恵まれなかった彼にようやく実子が誕生する一方、師直が囲みを解く条件には当時、鎌倉にいた義詮を京に呼び戻して政務を任せるとの項目があった。つまり、直義から子に幕府の政務が継承される恐れがあったため、尊氏が弟を追いやり、自身の子である義詮に天下を譲り渡そうとしたのである。

 この尊氏と直義兄弟の対立は「観応の擾乱」(1350年~52年)と呼ばれ、二人はこの間、それぞれ南朝と和睦し、一時、北朝の天皇が廃止(南朝の年号から正平の一統という)。この擾乱の渦中に尊氏はまず、苦し紛れに南朝と和睦した直義方の武士を鎮圧するために西上し、義詮はその留守を預かったが、南朝軍が攻勢に転じると、側近らの意見を聞き入れて京から撤退した。そして、戻ってきた父の軍勢と京の郊外で合流したが、摂津打出浜(芦屋市)で直義の軍勢に大敗し、尊氏は播磨に、義詮は丹波に逃走。尊氏は師直らの出家を条件に、直義となんとか和睦に漕ぎつけた。

 その後、尊氏と義詮は南朝と和睦し、鎌倉入りしていた直義追討の綸旨を南朝の後村上天皇から賜り、駿河の薩埵山(静岡市)で迎え討とうとする軍を逆に追い散らし、勝利した(その後、直義は尊氏に降伏したが、のちに死亡。毒殺ではないかと噂される)。

 当然、北朝方がここまで右往左往したことで、南朝軍は尊氏が留守にした隙を突いて再び京を攻めたことから、義詮はまたしても京を捨て、近江に走った。

 とはいえ、従う手勢がわずか一五〇騎ほどだったばかりか、琵琶湖を渡るにも船がなく、義詮は自害しようとした。軍勢催促状を回して一度は京を奪回したが、南朝軍の再攻撃の前に、北朝の後光厳天皇を奉じて都落ちした。

 これで、都落ちは計三回。義詮はこのときも美濃で尊氏軍と合流し、なんとか京に戻ることができたが、やはり偉大な父に頼りっぱなしの二世にしか思えない。

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