南北朝の英雄「二世の実像」【中編】楠木正成の長男「異名は小楠公!」の画像
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 南北朝時代の英雄とされる武将の“二世”に迫った前回、第一弾で取り上げた足利尊氏の三男である足利義詮は生前、善入寺(現・宝筐院=京都市)の僧である黙庵に「余が亡くなったら、楠木正行の墓の傍らに葬ってもらいたい」と頼んだ。

 善入寺に眠る正行は楠木正成の長男で南朝の功臣。敵(北朝)である義詮が本当に、そう言ったかは微妙である反面、彼の菩提寺である善入寺には実際、正行の首塚がある。その正行は「大楠公」の正成に対し、「小楠公」と讃えられたように、武略は父親譲りと評され、「桜井の別れ」の逸話で知られる。

 南朝の年号でいう延元元年(1336)、足利勢との決戦地である湊川(神戸市)に向けて出陣した正成は死を覚悟し、桜井の駅(京都府大山崎町付近)で供をしていた一一歳の正行に河内に戻るように伝え、別れに際し、次のように教訓した。「正成が討ち死にしたら必ず天下は(足利)尊氏のものとなる、しかし、そうなっても長年の忠義を捨てて降参してはならぬ。一族郎党一人のうち、一人でも生き残っているなら、金剛山あたりに立て籠もり、命を捨てて忠義に励め」

 結果、正成は湊川の合戦で敗れ、敵ながらも彼に同情した尊氏は、その首を河内にいた妻子に返却。正行は変わり果てた父の姿に涙を流して自害を決意したが、母に諭されて臥薪嘗胆、朝敵の足利勢を倒すことを夢見て、精進を重ねた――。

 これは『太平記』が伝える少年時代の正行の姿で、彼は「桜井の別れ」のときの年齢から逆算すれば、嘉暦(1326)生まれとなる一方、元亨二年(1322)説もあり、後者に基づいた場合は当時、一五歳。これは当時の成人年齢に当たることから、そもそも正成が正行に滔々と諭したという話自体に疑問も残り、実際は出陣せずに河内にいて、父の留守を守っていた可能性もある。

 実際、正行は生年もさることながら、父の死から自身が挙兵するまでの一一年が空白期間。この間、観心寺(河内長野市)に河内国小高瀬荘(守口市)を寄進するという南朝の後村上天皇の命を伝達するなど、河内の国司(守)に任じられていたと考えられるものの、まさに空白期間となっている。

 はたして『太平記』にある通り、河内守として力を蓄えながら、本当に打倒足利の機会を虎視眈々と窺っていたのか。それよりもむしろ、この間に北朝、つまり足利との和平を模索していたとみるべきではないか。実際、正成がまさにそうで、正行の死後、楠木家の当主として南朝を支えた末弟の正儀も北朝と和平交渉を進めた。

 一方、正行が父の死から一一年で挙兵した背景には、そうせざるを得なくなった事情も垣間見える。挙兵する三年前の興国五年(1344)、関東(常陸国)における南朝勢力の拡大を試みて失敗した北畠親房が吉野に戻った。彼が折り紙つきの抗戦派だったことから南朝内部の空気は一変し、正行は和平を掲げながらも挙兵に踏み切らざるを得なかったのではないか。

 彼はまず正平二年(1347)八月、紀伊国隅田城(橋本市)に進攻。楠木氏の拠点は当時、河内の東条城(富田林市)にあったとみられ、吉野の朝廷との間で兵站線を確保することが狙いだったとされ、続いて河内国池尻(狭山市)や同八尾で北朝軍(幕府軍)と戦い、八月二七日に同藤井寺で敵方の主力と合戦した。『太平記』が正行の初陣とする合戦で、それによれば、楠木軍が摂津の天王寺や住吉辺りを放火して回ったことから洛中は一時、騒然。尊氏は「天下の嘲笑、武将の恥辱」と考え、細川顕氏(河内や和泉などの守護)を大将に、三〇〇〇騎余りの大軍を河内に出陣させた。

 この天王寺付近を撹乱して回る戦術はかつて、父の正成が使った手法。正成がその後、河内国千早城に鎌倉幕府軍を引き寄せ、この間に幕府が滅亡した事情を知る尊氏や北朝首脳は、正行の動きを脅威に感じたはず。三〇〇〇騎余りの北朝軍はこうして藤井寺に布陣したものの、正行の軍勢に不意を突かれて敗退。正行はまさに父譲りの軍略を展開し、連戦連勝の快進撃を続けた。

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