■「観応の擾乱」が絡んで南朝が息を吹き返す!

 一方、その年の一一月、摂津の渡辺(大阪市)まで兵を引いていた細川顕氏は、山名時氏(丹波守護)と連合して態勢の立て直しに着手。正行はこの北朝軍と天王寺や住吉で合戦し、顕氏は戦わずして逃げ、時氏は自身が負傷したばかりか、弟である義兼らを失った。なお、『太平記』は当時、正行が寒水が流れる淀川に落ちた敵兵五〇〇人以上を救出して治療を施し、衣服や鎧、馬を与えて返したという美談を伝える。

 その後、北朝軍と正行の軍事衝突に、尊氏の弟である直義と足利家執事の高師直の確執が絡む。ちなみに、この確執はやがて観応の擾乱に発展して北朝を大きく揺さぶり、尊氏が師直に二〇ヶ国の兵をつけて正行討伐に向かわせた理由は、直義の出鼻を挫くためだったとみられる。

 一方、正行は『太平記』によると、吉野の後醍醐天皇の墓前で命をなげうつと誓い、吉野の如意輪堂の壁板にその覚悟を示す歌を書き記したという。父である正成が死を覚悟した「桜井の別れ」に似た話で、『太平記』の創作と考えられるが、正行が北朝の大軍を相手に死を覚悟したことは確かだろう。

 こうして両軍は河内国四条畷で激突。正行は一時、北朝軍の本営に肉薄し、大将である師直は上山六郎左衛門に身代わりをさせて難を逃れたという。

 だが、正行はやがて力尽きて討ち死に。北朝は安堵したが、師直が直義を出し抜く形で勝利を収めたことから両者の対立は一層、激化。ジリ貧だった南朝が息を吹き返したことから、正行は死後も忠誠を尽くしたことになる。

 それゆえ、足利義詮が羨望の眼差しを送り、冒頭で紹介した話が生まれたのかもしれない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

あわせて読む:
・南北朝の英雄「二世の実像」【前編】足利尊氏の後継者は“ドラ息子”!?
・SMAP木村拓哉と中居正広「歴史的和解」の“匂わせ“か?カギは「犬とマック」
・鎌倉幕府滅亡の元凶は“虚弱体質”!?北条高時に「暗君の汚名」の真実!

  1. 1
  2. 2