南北朝の英雄「二世の実像」【後編】“父は義貞”新田兄弟「武将伝説」の画像
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 鎌倉幕府の滅亡後、大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)による建武の新政が崩壊し、足利尊氏が持明院統の光明天皇(北朝)を擁立して全国の武士が両派に分かれて争う南北朝時代に入った。しかし、このときに両朝の分裂どころか、中国の「三国志」さながらの“鼎立状態”になる可能性があった。

 それは、この時代を代表する武将の一人である新田義貞が“北陸王朝”開設の野望を抱いていたという新しい解釈があるためで、仮にそうなっていた場合、全国の混乱はさらに拡大していたかもしれない。

 その義貞は鎌倉を攻め落として北条政権を滅ぼしたあと、自身と同じ清和源氏である尊氏が後醍醐天皇に叛くと、宮方の軍事指揮権を委ねられたものの、九州から東上した彼に敗れ、京を亡失。その後、後醍醐天皇の皇子である恒良親王を擁立して越前金ケ崎城(敦賀市)に拠った。

 当然、後醍醐天皇の忠臣としての行動と一般的に解釈される反面、彼が当時、すでに軍事指揮権を剥奪されていたことから南朝とは別に恒良親王を即位させ、尊氏が北朝を開いたように北陸に独立した政権を誕生させようとしたともされる。

 だが、義貞は建武四年(1337)三月、金ケ崎城が足利勢に落とされると、巻き返しを図るために北方に進出したものの、翌年閏七月、藤島城(福井市)の攻防戦で討ち死。北陸朝の野望はついえた――。

 その彼には男子が三人おり、嫡男である長男の義顕が金ケ崎城の落城に殉じた一方、次男の義興と三男の義宗は第三勢力を築こうとしたとされる父とは対照的に、揃って南朝の忠臣を貫いたことで知られ、いずれも伝説の持ち主。

 義興と義宗の母がそれぞれ、上野国の神社の神職の娘と常陸の名族出身だったため、身分的には三男である後者が新田家の嫡男という位置づけで、二人の名は北朝が尊氏とその弟である直義の二派に分裂した「観応の擾乱」の最中に強く歴史に刻まれている。

 観応二年(1351)一〇月、尊氏と義詮父子は北朝に降伏を申し出て、政権を南朝に返上した(南朝の年号で「正平の一統」という)。

 尊氏が東国に逃れた弟を攻めるに当たり、南朝に背後を脅かされることを恐れ、表面上、降伏したに過ぎなかったものの、この和睦が功を奏し、京を息子の義詮に預け、自身は直義軍を打ち破って鎌倉に進撃。

 翌観応三年正月に直義が鎌倉で死亡し、尊氏父子は北朝の内乱に勝利したが、南朝が当然、京の義詮に分裂以前の状態に戻すことを求めて軍勢を進め、同年閏二月二〇日、彼はここから撤退せざるを得なかった。

 こうした中、一方の義興と義宗の兄弟はその直前の閏二月一五日、新田の本拠である上野国で挙兵。義宗は信濃に亡命していた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて尊氏を追い、父である義貞が鎌倉幕府を倒した際の行軍路を踏襲して鎌倉に入った。しかも、義貞が鎌倉に入るまでに一四日を要したのに対し、兄弟はわずか三日でこれを成し遂げ、閏二月一八日にすぐさま尊氏を追撃。

 二〇日に人見原(府中市)、金井原(小金井市)でその軍勢と戦い、義宗が鎌倉に撤退した一方、義興が尊氏を石浜(台東区)まで追い詰めて自害寸前にまで追い込んだが、二八日に笛吹峠(埼玉県嵐山町)などで巻き返した軍勢に大敗する。新田兄弟はこうして一族の地盤の一つだった越後などに撤退。一連の合戦は武蔵野合戦と総称され、前述の北陸王朝の樹立を狙ったとされる父とは異なり、兄弟の軍事行動が観応の擾乱に乗じた南朝の京制圧と軌を一にしていたことから、二人は紛れもないその忠臣と言える。

 こうした中、義興は七年後の正平一四年(1359)一〇月、足利方の策謀にはまり、武蔵国矢口の渡し(大田区矢口、もしくは稲城市矢野口)で命を落とし、この話は「神霊矢口の渡し」という伝説となり、今も次のように語り継がれている。

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