■プロデューサーとしては…

――どの料理も銀幕から、おいしそうな感じが伝わってきました。ところで、角川監督は1970年代に日本映画界に革命をもたらした“角川映画”の創設者です。角川映画に、浅野さんも何作か出演されていましたね。

浅野  角川さんはプロデューサーもされていましたが、監督をされた映画でいうと『汚れた英雄』(82年)と『天と地と』(90年)でお世話になったんです。現場では吠えまくっていて、とにかく鬼が来た!  みたいな感じで(笑)。もう怖いから目をつぶっていようって。でも、プロデューサーとしての角川さんは全然違って。

――と言いますと?

浅野『スローなブギにしてくれ』(81年)のキャンペーンのときの話なんですけど、プロデューサーの角川さんと藤田敏八監督、原作者の片岡義男さんらと全国を回ったんですね。で、1週間ぐらい過ぎたあたりで、みんな疲れのせいでハイテンションになっちゃって(笑)。泊まったホテルの部屋の押入れとかに隠れて誰かを驚かせたりとかして。キャストみんなが“お友達〜”みたいになったんです。そのときの角川さんはガキ大将みたいな感じでしたね。

――意外な一面があったんですね。今回の現場での角川さんは、どうでしたか?

浅野  今回は女性映画ってことで180度違ったんですよ。なんか、仏様みたいでヘラヘラ笑っていらっしゃって。でも、私は“最後の最後まで油断はしないぞ”って思いました(笑)。

――かつては、よっぽどだったんですね。出演された角川映画で一番思い出に残っている作品といえば?

浅野  やっぱり、『スローなブギにしてくれ』でしょうね。藤田敏八監督の『十八歳、海へ』(79年)とかを観て、10代のうちに藤田監督とはご一緒したいなって思っていたんです。20歳になったら、きっとダメなんだろうなって。だから、ギリの19歳で使ってもらえたのは、すごくうれしかったことを今でも覚えています。

――『スローなブギにしてくれ』では大胆なシーンに挑戦されましたが、当時は抵抗や恥ずかしさはありませんでしたか?

浅野  全然なかったといえば……それはなかったですね。あの作品が持つ空気感が私をそうさせたってことでしょうか。

――同作は浅野さんにとって、ターニングポイントになったというわけですね。

浅野  そうですね。あれは大きかったし、次が『陽暉楼』(83年)で。それから『薄化粧』(85年)とか、ヘビーなのが何本か続いたんですね。それで自分の中では、もう鬱屈しちゃって。暗いのばっかり続いたから、気持ちも暗くなっちゃったんです。“弾けたいなぁ〜”って気持ちが、グ〜ッて溜まっていたんです。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4