日本初の実測地図を作った偉人!伊能忠敬「全国測量17年間」の壮絶の画像
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 五五歳から一七年もの歳月を費やし、日本全国を計一〇度も測量して日本初の実測地図を作り上げた偉人で知られる伊能忠敬は、生涯学習の教訓を残した高齢者の星などともいわれる。

 実際、忠敬は当時、すでに高齢者と言われた五〇歳で第二の人生を歩み始め、家業を長男に任せて江戸に出府すると、天文学者だった高橋至時に師事。

 七三歳でこの世を去った翌年、大図(二一四枚)と中図(八枚)、小図(三枚)の計二二五枚から成る「大日本沿海輿地全図」が完成する一方、他にも多くの地図を残し、それらの総数は確認されているだけで、実に約四四〇枚にも及ぶとされる。それらは「伊能図」と総称され、幕末に来日した外国人が舌を巻くほど精緻なもので、のちに「シーボルト事件」を引き起こす要因ともなった。

 それにしても、当初は天文学や暦学に興味を抱いたとされる彼はなぜ、測量を志したのか。実際、一〇回にも及んだ測量はトラブルの連続だったという――。

 忠敬は延享二年(一七四五年)、上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)の名主の家に生まれ、一七歳の頃に当時、「お江戸みたけりゃ佐原へござれ」と謳われるほど利根川の水運で栄えた下総国香取郡佐原村(千葉県香取市)の名家だった伊能家に婿入りした。

 伊能家は戦国時代、佐原で栄えた土豪の家系で、豊臣秀吉に小田原北条氏が滅ぼされたあと、帰農して百姓になったとされる。忠敬の時代は水運業や酒造業を営む大地主となっていた。彼は同家を継いで名主となり、村政に尽力して名字帯刀を許された。

 一方、忠敬は若年の頃から算術、つまり、計算に関心を持ち、自然と暦算にも興味を抱くようになった。むろん、暦には算術以外にも天体観測が必要不可欠で、忠敬は天文学と暦学に熱中。前述のように長男に家業を譲った際、楽隠居の道を選ぶことなく、江戸の黒江町(江東区門前仲町付近)に隠宅(隠居所)を置き、一九歳も年下だった至時に弟子入りした。

 当然、五〇歳で新たに学問を志した忠敬は非常に貪欲で、入門後に天体観測機器などを買い入れて隠宅をさながら天文台のようにすると、難解な専門書を昼夜、読み耽けり、日食や月食が起きるタイミングを計算した。あまりの熱心さに師匠である至時も舌を巻き、天体の運行の推測や暦などの計算を意味する「推歩先生」と呼ぶようになったという。

 ところが、忠敬は師匠である至時が当時、幕府の天文方となって改暦を命じられる中、全国を測量して回り、実測地図の作成に残りの人生を捧げ始めたことになる。

 いったい、なぜか。これは忠敬の生涯における最大の謎で、彼が幕府に蝦夷地(北海道)の測量を願い出た際の願書にはこうある。「在所(佐原)にてははかばかしい業績を残せず、江戸で高橋作左衛門(至時)の門弟になりました。(中略)しかし、天文観測のために身分不相応な機器まで買い、このままでは世間にも相すまぬことなので、後世の役に立つため地図を作りたいと思い至りました」(『測量日記』)

 人生のゴールが見え始めた年齢になり、世の中の役に立ちたいと考える気持ちは十分に理解できるものの、それがなぜ、地図の作成だったのかは判然としない。

 その一方で、忠敬の晩年の著書(『仏国暦象編斥妄』)には、その理由が次のような趣旨で書かれている。忠敬は黒江町の隠宅で天体観測を行い、ここの緯度を把握する一方、至時のいた暦局(浅草)のそれも測定。結果、その差が一分半と判明したことから、その正確性を確かめるため、黒江町と浅草の距離を実測しようとした。

 ただ、正確な測量には間棹や間縄に加え、各種測量器具が必要。むろん、江戸府内で許可もなく縄を張ることはできず、歩測に頼らざるを得ないが、これではむろん、誤差が生じてしまう。

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