■日本全国を測量する中現地トラブルもあった
一方、当時は北方防備が叫ばれるようになり、蝦夷地測量の必要性が高まっていたことから、至時と忠敬の子弟は幕府に願い出て、寛政一二年(1800)、第一次測量(蝦夷地、東北)が実現した。
つまり、緯度を正確に計測して天文学や暦学に役立てることが主目的で、地図作りは蝦夷地で自由に測量する権限を得るための口実だった可能性もある。
だが、翌年に第二次測量(伊豆から陸奥)、その翌年に第三次(陸奥から越後)と続き、当初は口実だった地図作りがいつしか、忠敬の晩年のライフワークになっていった。
しかも、測量が進むにつれて忠敬の権限が拡大。第一次の際は幕府に測量を許可されただけだったが、第二次では各地の村役人らは測量隊に協力することが義務づけられ、第三次では測量隊に無賃で人馬を出させる権限も与えられた。
とはいえ、閉鎖的な封建社会だった当時、各地の住民にとって、自分たちの土地を自由に測量されることは必ずしも気持ちがいいことではなかったのだろう。
実際に第四次測量(1803年)の際、越後の糸魚川で軋轢が生じた。宿場の問屋や役人が測量に協力的ではなかったことから、忠敬が「測量ご用に差し障りがある」と叱ったため、糸魚川の藩主から師匠である至時に後日、クレームが入ったという。
ともあれ、算術好きが高じて天文学と暦学に興味を抱いた造り酒屋の隠居がたまたま、江戸の隠居所である“にわか天文台”で、その緯度を観測し、その正確さを知るために始めた測量が亡くなる直前まで、実に一七年もの長きにわたって続いたことになる。
こうして正確な日本地図を完成させた忠敬は、文政元年(1818)にこの世を去り、先に他界した至時と同じ源空寺(台東区東上野)に埋葬された。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。