幕末最大の悲劇「水戸天狗党の乱」武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜!の画像
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 幕末の水戸藩士に武田耕雲斎という男がいる。父は跡部正続。もともとの名を跡部彦九郎正生という。

 耕雲斎は跡部家の宗家を継いだものの、この姓を嫌い、父が跡部家の主筋である甲斐武田の流れだったことから武田姓に改めた。その理由は、武田勝頼)の重臣だった跡部勝資が武田を滅ぼした佞臣といわれたからで、耕雲斎は藩の執政として敏腕を振るったが、水戸天狗党の首領として幕府軍に追討され、まともに取り調べを受けることもなく斬首された。

 では、先祖が佞臣といわれることを嫌った耕雲斎はなぜ、反逆者の烙印を押される悲劇に直面したのか。

 享和三年(1803)に生まれた彼が耕雲斎を名乗ったのは弘化元年(1844)のこと。この年、藩主の徳川斉昭は自身の改革に反発した藩内の門閥派が幕府を中傷したことで、退任と謹慎を言い渡されて失脚し、連座する形で罪に問われた藤田東湖ら改革派(尊王攘夷派)の藩士の一人が耕雲斎で、その際に号した名がそれだった。

 そして、門閥派はこの内紛の過程で、改革派の面々が学問を鼻にかけて天狗になっているという意味から彼らを「天狗党」と呼んだ。

 その後、天狗たちのボスだった東湖が安政大地震(1855)で亡くなると、耕雲斎は藩主の慶篤から信任されて執政となり、新たな指導者の一人となった。

 一方、天狗党の面々と門閥派の内紛は以降も継続。特に攘夷の風潮が高まるにつれ、天狗党の内部で激派(過激派)の勢いが増し、その脱藩浪人らが桜田門外で、幕府大老だった井伊直弼を殺害。この桜田門外の変が起きた万延元年(1860)七月、激派は品川沖に停泊する長州藩の軍艦丙へい辰しん丸まるの船上で、尊攘派である彼らと秘かに盟約を結んだ。これを「丙辰丸の盟約」「水長盟約」という。

 こうした中、激派は盟約に基づいて行動したが、文久三年(1863)八月一八日の政変で長州藩と尊攘派の公卿が失脚すると、様相が一変。その頃、天狗党で頭角を現した藤田東湖の四男である藤四郎はまだ、長州藩の尊攘派が京で健在な折、慶篤の供で上洛し、諸国の尊攘派藩士と交際し、いっぱしの革命家だった。

 そして、長州藩が政治の表舞台から去ったあと、尊攘派にとって希望の星となったのが水戸藩だった。翌元治元年三月、藤四郎は参謀格として水戸町奉行の田丸稲之衛門を首領に、亡き斉昭の位牌を奉じ、幕府に攘夷の決行を迫るために筑波山で挙兵。これが「天狗党の乱」という悲劇の始まりとなる。

 当時、攘夷派は横浜鎖港(開港場、横浜の閉鎖)を幕府に求め、天狗党もむろん、同じ主張を取った。

 彼らが日光東照宮で攘夷を祈願し、太平山(栃木市)で同志を募る一方、激派の動きを「徳川親藩の地位をわきまえず、将軍家や国家を危うくする」と考えた藩士らは、門閥派重臣の市川三左衛門らの支援を受け、大洗に集まって、これまた同志を募った。藩校弘道館の諸生が多く、彼らは諸生派と呼ばれる。

 一方、将軍後継職の地位にあった一橋(徳川)慶喜(のちの一五代将軍)は、幕政に何かと口出しする薩摩の島津久光ら諸侯を押さえるため、実現不可能であると知りながら、横浜鎖港を政治利用することを画策。慶喜は、諸侯の反対を押し切り、鎖港を実現しようとするポーズを取った。慶喜は斉昭の七男で、一橋家に養子に入った経緯もあり、天狗党の面々が横浜鎖港を主張する彼に期待したのも無理はなかった。

 だが、横浜鎖港はあくまで慶喜の政治の道具。彼にすれば、本気で鎖港を求める天狗党は自身の政治的な立場を悪くする存在でしかなく、幕府は天狗党の追討を決意する。

 一方、門閥派重臣の市川と諸生派も党をなし、幕府が天狗党追討の意思を固めると、江戸を進発。途中、幕府の追討軍や諸藩の兵が加わり、その軍勢は数千を超えたが、元治元年七月に下妻で天狗党に敗れ、市川らは水戸に帰った。

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