“平氏追討”はやけっぱちだった!? 源頼朝“挙兵”の「動機と裏事情」の画像
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 著名な歴史書である『吾妻鏡』は、伊豆の北条館(伊豆の国市)にいた源頼朝の元に治承四年(1180)四月二七日、以仁王令旨が届くところから始まる。平氏追討の命令だ。

 頼朝は父の義朝とともに平治の乱(1159年)で平清盛に敗れたことから当時、伊豆で配流生活を送り、伊豆国の在庁官人(現地に在住する地方官)だった舅の北条時政が平氏の横暴に苦しめられていた。

 頼朝はこうした中、平氏追討の令旨が舞い込んだことで、かねて平氏に不満を抱いていた伊豆・相模の豪族(武士)とともに挙兵を決意。ところが、八月になり、参陣を呼び掛けた豪族の中から平氏に遠慮して挙兵に応じない者が現れた。

 当然、こうなると、平氏に挙兵の話が漏れたと考えなければならず、頼朝は三島大社の祭礼が行われる一七日、警備が手薄になると踏み、平氏の目代である山木兼隆と、その後見人である堤信遠の館を急襲。総勢は北条時政と義時の父子や土肥実平、佐々木定綱と経高の兄弟ら八〇騎ほどだったとされ、佐々木がこのときに放った矢が「源家が平氏を征する最前の一箭なり」(『吾妻鏡』)とされるように源平合戦、あるいは治承・寿永の内乱と呼ばれる争乱の幕開けを告げた。

 以上が巷間伝わる頼朝挙兵のあらましだが、いくつか疑問もある。まず、以仁王の令旨が頼朝の元に届いてから挙兵するまで、三ケ月以上の空白があること。

 むろん、流人の頼朝が挙兵するには当時、その程度の準備期間が必要だったという見方もあるものの、実際に豪族らに軍勢の催促を行い始めたのは八月から。

 事実、平氏に対する謀叛が露見した以仁王が五月一五日深夜、京の三条高倉の御所を抜け出し、園城寺(大津市)に逃亡し、その後に諸国の源氏に令旨を発した、とする説もある(永井晋『源頼政と木曽義仲』)。

 ところが、『吾妻鏡』では、この二週間以上も前に頼朝の元に令旨が届いたとされ、この矛盾については「鎌倉幕府の影響下にある『吾妻鏡』は、以仁王からの令旨を最初に受け取ったことにしたいので、令旨の日付や受け取った時期を四月へさかのぼらせた可能性がある」(前同)という。確かに鎌倉幕府の公式歴史書という『吾妻鏡』の性格を考えると、十分にあり得る話だ。

 とはいえ、これで空白の謎が解けたわけではなく、その鍵に迫るため、以仁王と源頼政という老武将について検証したい。

 以仁王は後白河法皇の第三皇子(異説あり)で、有力な皇位継承権者でありながら、甥である安徳天皇が清盛に支持されて即位したことから、皇統が「兄・高倉上皇-甥・安徳天皇」のラインに引き継がれ、完全に干される形になった。

 だが、以仁王はそれでも、鳥羽法皇の皇女であり、各地で荘園を経営して大勢の武士を家人として抱える八条院暲子内親王の猶子となり、支持者がいなかったわけではなかった。

 ちなみに、以仁王の令旨を諸国の源氏に下す役目を担ったのは頼朝の叔父である源行家で、彼は八条院の蔵人。皇位継承権があり、かつ、八条院という支持基盤を持つ以仁王に、「高倉-安徳」の皇統を維持しようとする清盛が警戒して謀叛という無実の罪を着せた疑いは否定できず、王にも平氏を討とうとする動機は十分にあった。

 一方、平治の乱で清盛に与したことで、源氏でありながら彼に厚遇された源頼政もまた、人脈的には八条院に繋がり、このネットワークが以仁王の挙兵をもたらしたといえる。

 以仁王は諸国の源氏に挙兵を促したものの、平氏が逃亡先の園城寺攻撃の姿勢を見せると、そこに合流してきた頼政とともに、新たに蜂起した興福寺を頼みとして、五月二五日夜、南都(奈良)を目指した。

 だが、頼政は宇治で平氏の軍勢に追いつかれて敗死。以仁王はなおも南に進んだが、途中で流れ矢に当たり、非業の死を遂げた。

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