源平合戦「水島の戦い」最大の謎!平氏圧勝の要因は「日蝕説」の真実の画像
写真はイメージです

 栄華を極めた平氏は寿永四年(1185)三月に壇ノ浦(下関市)で滅びる一年余り前に、『平家物語』が「会稽の恥を雪そそいだ」とする水島の合戦で源義仲軍を破った。

 治承四年(1180)八月に源頼朝が挙兵し、翌年閏二月に平清盛が死去する中、その三男の宗盛を総帥とする平氏一門は寿永二年(1183)七月二五日、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち。頼朝は当時、鎌倉で後に幕府と呼ばれる政権の基盤作りの途上で、木曽で育ったことから木曽義仲ともいわれる従兄弟がわずかに遅れて信州の佐久で挙兵し、連戦連勝で都を陥れた。

 だが、平氏はその後、前述の備中の水島(倉敷市)で義仲軍に大勝。以降は頼朝の軍勢に連戦連敗だったことから、この戦いで一門として最後の光芒を放ったと言え、その勝因は「黒い太陽」、すなわち“金環日蝕”だったという伝承がある。

 平氏一門は都落ちしたあと、西国の所領を後白河法皇によって没収されたものの、それはあくまで宣言止まりで、実質的には支配を続けた。

 こうした中、平氏は所領のある西海を進んで九州の大宰府入り。とはいえ、息が掛かった九州も安泰とはいえなくなり、寿永二年一〇月半ば、都落ちのときとは逆に東に、讃岐の屋島(高松市)まで逃れた。

 この動きは一見、行き場をなくして流浪しているようにも映るが、平氏軍は阿波の豪族らの助けを借りて屋島で地歩を固め、内裏を設けて安徳天皇の行在所とした。

 この屋島はその名の通り、屋根の形をした溶岩台地。今では陸続きの半島として扱われるものの、当時は瀬戸内海に浮かぶ島だった。

 一方、義仲はすでにその頃、後白河法皇から「平氏追討」の院宣を与えられ、西に向かっていた。当時、この二人の関係は険悪化していたが、後白河には義仲を都から追い出す意味が、一方、彼には平氏を都落ちさせた際に得た平氏没官領を実質支配する狙いがあった(上杉和彦「源平の争乱」)。

 こうして備前に入った義仲軍の前に、かつて平氏の家人だった妹尾兼康という武将が立ちはだかった。彼は倶利伽羅峠(富山、石川県境)の合戦で、一度は義仲軍の捕虜になったものの、備前に逃亡し、知行国主である源行家(義仲と頼朝の叔父)の代官を殺害して気勢を上げていた。

 義仲はまず、彼を血祭りに上げ、平氏の拠点となった屋島を次の攻撃目標に設定。屋島と瀬戸内海を挟んだ山陽道側の水島に進軍し、平氏方も源氏勢を迎え討とうと軍勢を派遣し、両軍は閏一〇月一日に激突した。

 そして、この日に金環日蝕が起きたことは事実だから、問題は巷間伝わるように、これが源平両軍の勝敗『源平盛衰記』は合戦の状況をこう伝えている。

 夜明けとともに源氏の兵が軍船に乗り込み、とも綱を解いて海へ乗り出すと、平氏軍も待ってましたとばかり、軍船に乗り、大声を上げて戦った。

 兵と軍船の数は史料によって若干は異なるものの、源氏方が矢田判官代義清を大将に、およそ一〇〇余艘に五〇〇〇余の兵。

 かたや平氏方は平知盛(清盛の四男)と教盛(清盛の異母弟)率いる二〇〇艙の船に七〇〇〇余の兵で、源氏方のほぼ二倍の兵力を要していた。

 水島も今では陸地化し、当時の面影は残っていないが、源氏方は乙島に、平氏方は柏島に陣取り、両島の間の狭い海峡で海戦が行われたとみられる。

 では、『源平盛衰記』が記す日蝕の状況を見てみよう。

「かかるほどに、天にわかに曇りて、日の光も見えず、闇の夜の如くになりたれば、源氏の軍兵ども日蝕とは知らず、いとど東西を失って船を退きていづちともなく、風に随したがって遁れ行く。平氏の兵者共はかねて知りければ、いよいよ鬨をつくり、重ねて攻め戦ふ」

 つまり、戦いが佳境に入った頃、空が急に暗くなり、金環日蝕が両軍を襲い、源氏方はそれと分からずに大混乱をきたし、風に随って逃走。

  1. 1
  2. 2