宣教師ルイス・フロイスが残した戦国ニッポンと織田信長の実像!の画像
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「中くらいの背丈で華奢な体軀。髭は少なく、はなはだ声は快調」

「睡眠(時間)は短く、早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった」

「自邸においてもきわめて清潔」

「対談の際、遅延することや、だらだらとした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しく話した」

 これらはいずれも織田信長の特徴や性格などについて、戦国時代に来日したポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスが、自身の観察眼に基づいて分析したものだ。

 フロイスが日本滞在中に記した『日本史』は一八世紀半ば、ポルトガル人の学士員らにマカオで発見されるまで眠り続け、当時の日本国内の様子を知ることができる貴重な証言が満載。彼は布教活動の一方で、日本の習俗などを頻繁に本国に書き送り、“戦国ニッポンの観察者”ともいわれたばかりか、前述のように信長ら著名な武将たちとも関係があった――。

 フロイスは一五三二年頃、リスボンで生まれ、王室の書記官として文才を遺憾なく発揮したあと、一七歳のときにイエズス会(異教徒への布教などを目的とする修道会)に入った。

 その理由は定かでないものの、彼は後にインドのゴアで布教活動を開始。この翌年、フランシスコ・ザビエルが連れていた日本人のアンジロウに出会ったことで、日本に対する興味を掻き立てられたのだろうか。

 ザビエルが日本での活動を終えてゴアに帰着し、中国に布教に向かう途中、上川島で病死すると、文才と語学の才能を買われ、二三歳のときに彼に代わって日本に向かったが、マラッカ(マレーシア)で季節風を待つ事態に直面したことから引き返し、パードレ(司祭)に任命された。

 そんなフロイスに再び、日本に渡航する機会が巡ってきたのは永禄五年(1562)のこと。信長が尾張を統一した翌年で、ゴアを出発して肥前の横瀬浦(長崎県西海市)に上陸し、三二歳でようやく日本の地を踏んだ。

 フロイスはその後、豊後のキリシタン大名だった大友宗麟に出会い、さらに海路で堺を経て京を目指し、一三代室町幕府将軍だった足利義輝に拝謁。彼は当時、日本語を十分に話すことができないもどかしさを感じながらも、布教活動は順調に進むかに思われる中、この五か月後の永禄八年(1565)五月一九日、義輝が家臣である三好と松永勢に弑逆される事件が起きた。

 こうなると、バテレン(キリシタン宣教師)に反感を抱く勢力が自然と活気づき、さらに、天皇から宣教師追放の勅令が出されたことで、畿内で布教を任されていたフロイスは京を追われ、堺などで潜伏生活を開始。

 そうした中、信長は義輝の弟(義昭)を奉じて上洛し、その先陣として和田惟政らが永禄一一年(1568)九月二三日に京に入った。

 そして、この惟政が義輝の奉公衆で、キリシタンのダリオ高山飛騨守友照(のちの高槻城主・高山右近の父)に連れられて京の教会を訪れたことがあったため、バテレンに好意的で、結果、フロイスは永禄一二年三月一一日に信長の許可の下、三年八か月ぶりに京に戻った。

 とはいえ、信長に直接に会うという大仕事が残ったままだったため、その京の宿舎だった妙覚寺を惟政がフロイスに案内することになった。

 だが、信長はひと目のないところで宣教師に会い、洗礼を受けたと誤解されることを敬遠してか、当時は遠目にフロイスを見ただけで、贈り物は黒いビロードの帽子を除き、すべてを返却したという。

 それでも惟政の骨折りによって、四月三日にようやく信長とフロイスの面会が実現した。二人はそれぞれ三六歳と三八歳の同世代。

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