■豊臣秀吉の天下統一も見届けて日本で他界!

 信長が一五代将軍に就いた義昭のために普請中だった二条城工事現場で、建築作業を監督しながら堀端の上に立ち、フロイスの到着を待ったという。『日本史』には次のようにある。

「彼(信長)は、司祭(フロイス)を呼び、橋上の板に腰をかけ、陽があたるから(帽子を)かぶるようにと言った」

 信長はここで、約二時間にわたってフロイスと話し、「年はいくつか」「ポルトガルやインドから日本に来るのに、どのくらいかかるか」「この国でデウスの教えが広まらなかったら、またインドに帰るのか」などと矢継ぎ早に質問したとされ、二人はその後、何度も会うことになる。

 フロイスが当時、信長の居城だった岐阜城を訪ねた際は、本人に膳を運んでもらう接待を受け、そうした際の自身の観察眼に加え、信長に近侍していた者から多くの情報を得たことで、冒頭の人物描写が書き残された。

 こうしてフロイスは四月八日に信長から、布教の自由を保障する朱印状を与えられた。むろん、信長はその写しがポルトガルやインドに送られ、自身がフロイスに与えた恩恵が伝わることを期待し、南蛮諸国と交流することを望んでいたからだ。

 その後、フロイスは天正九年(1581)、イエズス会の巡察師で来日していたヴァリニャーノが本能寺の信長を表見訪問する際に同行。その翌年、本能寺の変が起きたときは九州にいた。

 一時、ヴァリニャーノに同行してマカオに渡った時期があったものの、豊臣秀吉の天下統一をしっかりとその目で見届け、慶長二年(一五九七)六月六日、長崎で病没した。享年六六。

 当時はすでに秀吉の晩年に当たり、二六聖人殉教事件でキリシタン受難の時代だった。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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