宮沢和史インタビュー「コロナ禍は、僕たち人間が“次の世界”に進むきっかけなのかも」の画像
宮沢和史(撮影・弦巻勝)

 僕の音楽の原体験は「歌謡曲」です。ウチの親がムード歌謡を聴いていて、それが自然と耳に入っていました。それから、中村雅俊さんが好きになって、中学時代には中村さんと同じ白いフォークギターを買って、弾き語りのマネごとを始めました。

 でも同じ頃、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場して、テクノやニュー・ウェイヴといった新しいジャンルの音楽にも衝撃を受けたんですね。

 牧歌的なものと挑戦的なものとが同居するという、僕の音楽の指向性は、そのときにもう決まってしまったのかもしれません。

 その後、大学に合格して上京してから、『THE BOOM』というバンドを組みました。このバンド名は、“一過性のブームで終わらないように”という意味を込めて、逆説的につけたものです。

 路上ライブから始めて、1989年にデビューしたんですが、当時はバブルで、世の中全体が浮かれていた時代。音楽業界では空前のバンドブームが起きていて、今なら演劇やお笑いの道に進むような人たちも、みんなバンドをやっていました。

 それはそれで面白かったのですが、必ずしも居心地がいいとは言えなかった。どうも時代と反りが合わないと感じた僕らは、デビューしてすぐに“今の時代にない音楽をやろう”と、和楽器を取り入れたり、日本の美を描いたりしようと考えたんです。

 そんな中で出合ったのが「沖縄音楽」でした。そして、沖縄で第二次大戦時に20万もの命が失われ、その犠牲が戦後日本の復興の土台になったことを知り、大きな衝撃を受けました。そこで「じゃあ、今の僕らには何ができるのか?」という自問自答を経て生まれたのが『島唄』です。この曲は表向きにはラブソングですが、実は全部ダブルミーニングで、戦争の犠牲になった沖縄の人々へのレクイエムになっているんです。

 ただ、沖縄出身ではない僕らが三線を弾きながらこの曲を歌うことに対して、一部の伝統音楽の関係者の方々から反発もありました。

 加えて当時、特に音楽界では、日本本土と沖縄の間に“見えない壁”も存在していた。だから、戦争も知らない本土生まれの僕らが、沖縄戦をテーマにした曲を歌う資格はあるのかと、迷いが生まれました。

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