「五箇条の御誓文」の起草に参画!由利公正を発掘したのは坂本龍馬の画像
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一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ。

一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ。

一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。

一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。

一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。

 これは慶応四年(のちの明治元年=1868)三月一四日に明治新政府が示した、いわゆる「五箇条の御誓文」の条文だ。

 中でも第一条は議会制民主主義の基本。由利公正は当初、条文を「万機公論に決し私に論ずるなかれ」とし、土佐藩の福岡孝弟の添削が入ったものの、彼が起草した事実に変わりはない。

 また、公正は財政難に喘ぐ新政府に登用され、太政官札発行(日本初の政府発行紙幣)という政策を成し遂げた人物で、彼を岩倉具視に推薦したのが坂本龍馬。実際、龍馬が暗殺される五日前にしたためた手紙(二〇一七年に初公開)には「彼(公正)の上京が一日先延ばしになったら新国家の成立が一日先に延びてしまう」とあったほど。公正の後の事績を考えると、龍馬の人を見る目は確かだったと言える。その半生を龍馬との出会いを中心に振り返ってみたい。

 由利公正は明治以降の名前で、もともとは三岡八郎といい、名君の誉れ高い越前(福井)藩主・松平春嶽の命で藩政改革に当たった橋本左内(藩医の家柄)に認められたことが、彼が歴史の表舞台に登場する契機となった。

 だが、左内は将軍継嗣問題に首を突っ込み、安政の大獄で捕らえられて刑死。公正はその後も越前藩の政治顧問だった横井小楠(熊本藩士)の教えに従い、藩内で産業を興して財政を潤すことを考えた。

 しかし、公正はその性格が災いした。時代が攘夷熱にうなされていた文久三年(1863)、越前藩の軍兵を率いて上洛し、無謀な攘夷をやめさせようとしたが、計画は頓挫し、同年八月に蟄居を命じられる。才能がある反面、協調性を欠き、我意を押し通そうとする性格が「不届き」とされたのだ。

 では公正はいつ、龍馬と出会ったのか。諸説あるが、公正が蟄居させられる四ヶ月ほど前、龍馬が福井を訪ねた際に初めて会ったというのが通説。

 龍馬の福井訪問の目的はカネの無心。当時、龍馬と幕臣・勝海舟は神戸で海軍操練所設立を将軍徳川家茂に認めさせていたが、その開設費用が不足していた。そのため、不足資金を越前藩に負担してもらおうと勝が龍馬を福井に派遣したのだ。

 その後も龍馬、小楠、公正の三人で飲んだという逸話が残っているが、定かではない。ただ、公正は初めて龍馬と会った直後に蟄居となり、他藩の者らとの交流は禁止されたから、二人が会う機会はなかったはずだ。

 慶応二年(1866)六月に公正の蟄居が解かれ、史料で確実に二人が会ったとわかるのが翌慶応三年一〇月三〇日。再び福井で会っている。このときの龍馬の福井訪問の目的はなんだったのか。

 このとき龍馬が土佐藩士・後藤象二郎へ送った手紙の草稿(越行之記というタイトル)から目的を探ってみよう。

 龍馬が福井に着いたのが一〇月二八日。まず龍馬は土佐藩の山内容堂前藩主から春嶽公へ宛てた親書を藩の役人に渡し、同藩大目付に「春嶽公にお会いして国事についてご指導たまわりたい」と申し述べた。

 しかし、「春嶽公は上洛の準備で忙しく直に会うのは難しい」といわれる。ここでまず越前入りの目的が容堂の使いであったことがわかる。福井藩の大目付は春嶽から容堂への返書を渡すと約し、龍馬は公正との面会を求めた。

 つまり、龍馬は容堂の使いで越前入りし、そのついでに公正に会おうと思っていたのだ。

 通説ではこのとき、龍馬と春嶽が会っていたとされてきたが、近年発見された草稿(前出)の存在が、その通説を覆した。

 と同時に、公正の伝記なども合わせて考えると、龍馬は福井で新政府の政策について公正の意見を聞こうとした事実が見える。

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