■持病の尿路障害が悪化、将軍職を長男に譲った
それにしても、言語の問題や引きこもりの原因を考えると、前述のあだ名や陰口はまさに言語道断。そもそも、幕府中興の祖と呼ばれる吉宗が、いくら長幼の序を重視したからといって、秀才だった次男を押しのけてまで、決して評判のよくない長男を次の将軍に据えるはずがない。
家重の四つ下の弟(のちの田安宗武)は一四歳で元服し、吉宗の前で論語をすらすら暗証したという秀才。家重が将軍に就いたあと、老中・松平乗邑(佐倉藩主で享保の改革の中心人物)の失脚事件が起き、通説では兄を廃して弟の宗武の擁立を図ろうとしたために免職させられたという。ところが、『徳川実紀』には乗邑は改革の成果を誇るあまり、行き過ぎた行動があり、吉宗がいくら注意しても改めなかったという。
そうなると、乗邑が失脚した理由が宗武を擁立したためという解釈は怪しくなり、擁立劇そのものは、家重が「アンポンタン」だという誤解が生んだ虚構の疑いも生じる。『徳川実紀』はまた、家重を「寛厚の人」としている。
ある祝いの儀の席上のこと。家重は運ばれてきた二の膳の中の器皿が傷んでいたことを知りながら、何もいわなかった。その理由は、このことが発覚した場合、配膳の者が罰を受けることになるためだったとされ、それを知って「人々その深仁の御こころざしを感じ奉れり」といった。
もちろん、いいことばかりではなく、家重はかなりの大酒飲みだったらしい。やはり、言語障害のために自分の意思を伝えることが難しく、ムシャクシャして酒に走ったところもあったのだろうか。
こう見てくると、家重は決して名君ではなく、将軍職にふさわしい英邁な資質を備えていたわけではないものの、世評でいうほど暗君だったとも思えない。
そんな彼は宝暦一〇年(1760)、五〇歳で将軍を長男の家治に譲り、前述の篠田氏によると、この頃から持病の尿路障害が顕著になって、やがて尿毒症を引き起こしたという。そして、家重はこの翌年、この世を去った。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。