■大隈重信と伊藤博文の対立に巻き込まれた!?

 五代はその後、鉱山業や製藍業などに成功し、明治一四年(1881)、大阪財界を挙げたプロジェクトとして関西貿易社を設立して総監に就任。

 同社が輸出用商品として北海道の海産物に目をつけた一方、同年暮れの北海道開拓使の解散が確実となる中、長官で薩摩藩出身の黒田清隆は、開拓使が運営する現業部門の職員が失業して路頭に迷わないために、その受け皿として北海社という会社を設立させた。

 そして、同社に開拓使の倉庫、桑園、牧場、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、缶詰製造所などの官有物を払い下げようとし、その価格が当時の金額で三八万円余。

 これは破格の安さで、無利息三〇年賦という好条件でもあったが、これが問題となった。

 しかも、北海社が北海道の海産物などの販売権を一手に握る予定だったため、五代の関西貿易社のダミーという噂が流布。

 当時の道民にすれば、開拓使の財産が大阪財界に乗っ取られ、商権まで奪われることを意味し、報道機関が一大スキャンダルとして扱い、黒田と五代は窮地に陥った。

 結局、払い下げは中止されたものの、誰が疑惑をリークしたのか。

 当時、新政府内では大隈重信(佐賀藩出身)と伊藤博文(長州藩出身)らが対立。

 伊藤らは官有物払い下げ事件を大隈らの反政府陰謀であるとして、彼と、その一派を罷免した(明治一四年の政変)。

 つまり、五代は政争に巻き込まれた可能性が高い。

 また、関西貿易社が北海社に払い下げを求めたのは、岩内炭坑と厚岸けし官林だけだったことも判明。

 五代に対する嫌疑は冤罪だったようにも思えるが、事態はむろん、そう単純ではない。

「甲乙両社」と社名は匿名になっているものの、北海社(甲社か)と関西貿易社(乙社か)が最初から合併を前提にし、世論の攻撃をかわすために、それぞれ別会社でスタートすることになったという史料の存在も明らかになっている。

 だとすると、やはり疑惑の通り、北海社は関西貿易社のダミーということになり、この事件は五代の唯一の汚点と言えるのかもしれない。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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