対外強硬論者は単なるイメージ!?徳川斉昭「攘夷の巨魁」は演技だった?の画像
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「明治新政府に先駆け、江戸時代に廃仏毀釈を断行した男」

「敬虔な尊王論者で過激な攘夷論者」

――こう評された幕末の水戸藩主である徳川斉昭の登場により、皇室を敬う「尊王」と排他的な「攘夷」の両思想は合体し、まさに「尊王攘夷」のムーブメントが起きた。そんな彼の評価が、ここにきて見直され始めている――。

 徳川斉昭は寛政一二年(1800)三月、七代目の水戸藩主である徳川治紀の三男として、江戸小石川(東京都文京区)の水戸藩上屋敷で生まれた。そんな彼がもしも三男でなかったら、幕末の歴史は変わっていたかもしれない。

 斉昭は長兄である斉脩(八代藩主)に万一のことが起きた場合の“控え”として、次男のように養子に出されることもなく江戸藩邸で大事に育てられ、父から「たとえ将軍家に理があろうと、天皇に弓を引くことは不義である」という思想を叩き込まれた。

 彼は水戸藩が徳川御三家ながら、二代藩主である光圀以来、伝統的に天皇家を尊んできたことから自然と尊王論者になった。文政一二年(1829)一〇月に病死した兄に代わり、三〇歳で藩主に就任。当時、門閥派の家老らが徳川御三卿である清水家当主を次の藩主として支持し、改革派の家臣らが斉昭を推す騒動があり、両派の対立は以来、幕末まで続いた。

 とはいえ、水戸藩は当時、慢性的な財政難に喘いで改革が急務だったため、斉昭は藩主に就任したあと、江戸から水戸に帰って藩政改革に着手。この行動は当時、水戸藩が幕府内で「副将軍」に位置づけられて江戸定府が原則だったことを考えれば、ある意味ではセンセーショナルな“事件”と言え、藩主が水戸で執務したことは実際、過去に四例しかなかったほど。

 こうした中、斉昭は一度、家臣の俸禄(給料)を取り上げたうえで、藩内の知行所(所領)を指定。彼らがそれぞれ、自身の知行所から年貢を徴収する制度に切り替え、製茶やガラス製造、養蜂などの産業を興した一方、藩校の弘道館を開設し、仏教を「異端邪説」として嫌ったこともあって、大砲鋳造のために梵鐘や仏像を提出させて神仏分離政策を推し進めた。

 一方、彼はこの間、徳川家慶が一二代将軍に就任したタイミングで意見書を提出。これは当時、天保九年(1838)が「戊戌」の年だったことから「戊戌封事」と呼ばれ、ここに斉昭の強烈な攘夷思想が窺うかがえる。

 まず、欧米諸国を「盗賊同様」の国々と心得るべきと主張したうえで、彼らは朝鮮や琉球などといった「貧弱の小国」を相手にすることなく、米穀金銀を充分に持つ「富有の国」である日本を必ず、狙ってくると警戒。

 さらに、「副将軍」としての責任感からだったのか、新将軍の幕閣人事にも口を挟んだことで、一部の幕府上層部から怒りを買ったことは事実のようだ。

 一方、斉昭は藩政改革の一環だった前述の廃仏毀釈が僧の反発を買い、これに藩内の門閥家老らも加わって幕府を動かしたとみられ、天保一五年(1844)に幕府に謹慎を命じられたことで、長男である慶篤がわずか一三歳で藩主に就任した。

 とはいえ、斉昭の名声はすでにこの頃、領内は当然のことながら、他藩にまで響き渡り、謹慎を解くように求める動きが噴出すると、これが同年一一月に実現し、その後、藩政にも復帰。

 嘉永六年(1853)六月三日、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航すると、その翌々日には当時、幕府老中だった阿部正弘からその対処法について意見を求められている。斉昭は折り紙つきの攘夷論者だったにもかかわらず、意外にも「打ち払い」を否定した。

 むろん、阿部にすれば、対外強硬論者である斉昭の意に反した政策を行えば、いずれ厄介なことになるという思いもあったはず。

 だが、斉昭はペリーと戦争して仮に勝利したところで、伊豆諸島や八丈島が奪われることになるとして自重論を主張したという。

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