打者目がけて、一直線に向かってくるボール。それを合図に荒ぶる男たちはベンチからグラウンドに飛び出した!
「少しでも情が通うと遠慮もする。だから僕が現役の頃は、特に他球団の野手には、あえて近寄らないようにしていました。内角攻めを怖がるようじゃ、投手は務まりませんからね」
阪神で一時代を築いた、野球解説者の藪恵壹氏がこう証言するように、ひと昔前のプロ野球は現在と異なり、誰もが血気盛ん。両軍入り乱れての大乱闘は、試合の“華”の一つでもあった。
そこで今回、球史に残る乱闘事件の裏側を徹底取材。“あの頃”の裏側を、関係者の証言で明かしていこう。
まず真っ先に思い出されるのは、やはり、この人。歴代ダントツの通算196死球を誇る清原和博だ。
1989年9月23日の西武球場。かねてより執拗な内角攻めに遭っていた清原は、ロッテの平沼定晴から受けた死球についにブチギレ。バットを投げつけたその勢いのまま、平沼目がけて、マウンド付近でヒップアタックをお見舞いした。ロッテの正一塁手として、その一部始終を目撃していた愛甲猛氏は言う。
「俺らの間じゃ、道具は使わないっていうのが暗黙の了解。キヨがあそこでバットさえ投げてなきゃ、当てたこっちが悪いですんだ話でもあったんだよ。ちなみにあのとき、一番怒ってたのは山本功児さん。翌日ロッカーまで謝りに来たキヨも、功児さんにクンロク入れられて大泣きしてたよ」
とはいえ、そこは男気あふれる“昭和男”たちの集まり。遺恨が残るようなことは、なかったという。
「ネットなんかには、平沼が仕返しのために待ち伏せをしたとか、尾ヒレのついた情報が載ってるけど、真相は単にニアミスをしただけ。当のキヨだって、すぐ(マイク・)ディアズに捕まって顔面に何発ももらってたし、そこは両者痛み分けだから」(愛甲氏)
その後、“番長”キャラの巨人時代には、前出の藪恵壹氏とも因縁の間柄に。
舞台は97年8月20日、東京ドームでの対阪神戦。マウンドの藪氏から、シーズン3個目の死球を食らった清原が激怒。「3回目やぞ!」と、指3本を突き上げた光景は、今もファンの間で語り継がれている。
「あれはもうスコアラーからの情報をもとに“内角をガンガン攻めろ”っていう指示が出ていましたからね。当時は僕がカードの頭で先発をすることも多かったから、余計に印象が強かったんじゃないかな。おかげで後半は内角を使う必要さえなかったですから」(藪氏)
ちなみに、両者の“手打ち”は、後に、ある仲介人によって半ば無理やり実現することになったという。
「僕からしたら手打ちも何もないんですけど、オフの恒例だったゴルフの阪神-巨人戦のときに、川藤(幸三)さんが“おまえら、こっち来て酒注げ”って(笑)まぁ、今にして思えば、(右打者の清原に対して)プレートの踏み切り位置を一塁側にしていれば、あんなに当てずにすんだな、とは思いますけどね」(前同)