秀吉の「バテレン追放令」に反発!キリシタン大名・高山右近の生涯の画像
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「日本は神国たるところ、キリシタン国より邪法を授け候儀、はなはだもってしかるべからず候事」

 天正一五年(1587)六月一九日夜に突如、九州の島津義久を屈服させて筥崎(博多)に凱旋していた豊臣秀吉から出されたバテレン(神父)追放令の第一条だ。

 その要因については諸説が入り乱れ、“女好き”で知られた秀吉が南蛮人による日本人女性らの奴隷売買を阻止するためだったともされる一方、大のバテレン嫌いだった施薬院全宗が彼に働き掛けたためともいわれる。

 実際、全宗の差し金だったと考えられ、秀吉は当時、明石で六万石を食む配下の大名である高山右近重友(以下=右近)に使いを送り、「領内の神社仏閣を破壊し、領民や臣下を強制的に改宗させた者は、とうてい天下人(秀吉)に仕えることはできぬ。棄教するか、領地を捨てるかのいずれかを選べ」と要求。

 右近は当時、キリシタンの指導的立場にあったが、大名の身分を捨てることを決断し、家臣に「皆に扶持すべきものが無くなったゆえ、皆は他の領主に仕えよ」と語り、さらに「関白殿(秀吉)からの宣告(バテレン追放)にむしろ大いなる喜びを感じている。我らの主ゼウスの栄光のために我らの信仰を示す時がきたからだ」とまで言い放った。

 はたして、彼がここまでキリスト教を信奉した理由はいったい、なんだったのか。

 その父である高山飛騨守友照は大和国多聞山城(奈良市)城主だった松永久秀に仕え、当初は熱心な仏教徒だった。

 当然、バテレンの布教活動を妨害しようとしたが、元琵琶法師の日本人宣教師であるロレンソに数日間、キリスト教の宗旨を説かれたことで、永禄六年(1563)に一転、洗礼を受けて筋金入りのキリシタンとなった。

 一方、右近はこの翌年、父にならって洗礼名ジュスト(正義の人)を名乗った。

 とはいえ、彼は当時、まだ一二歳で、父に従っただけとも言え、はたしてキリスト教の教義をどこまで深く理解していたかは疑問。

 こうした中、飛騨守が摂津高槻城主の和田惟政に仕えて主君が討ち死にしたあと、その子である惟長が新たな城主となったことで、高山親子の運命が変わる。というのも、惟長はどうも暗愚な主君だったようで、補佐役だった叔父を殺害すると、重臣だった高山父子を評定(会議)の場に誘い出して暗殺を企て、彼らが入ってくるなり、抜き身の刀で襲撃。

 高山父子らが応戦したことから大混戦に発展し、右近は部屋を照らす蝋燭が消えた瞬間、惟長に突進し、二ヶ所に致命傷を負わせたが、このときにハプニングが起きた。

 むろん、暗闇でのこと。敵がどこにいるのか分からず、右近は家臣に誤って首を半ば切断される重症を負ったのだ。

 ただ、この臨死体験が当時、二一歳だった彼の宗教心を覚醒させたのではないか。

 一方、惟長が城を捨てて逃走すると、飛騨守は当時、織田信長に摂津の支配を任せられていた有岡城(伊丹市)城主の荒木村重から高槻城を与えられ、その後、右近がその地位を継承。右近は以来、畿内で最大収容人数を誇る教会を建てると、僧らに改宗しても収入の保証をするとの言質を与え、納得づくで布教を進めたこともあり、領民の実に七割がキリシタンに改宗したという。

 当然、改宗によって無住の寺が増え、その資材を天主堂(教会)の建築に転用したことから前述の神社仏閣の破壊者という批判も当たらない。

 こうした中、右近は二五歳だった天正六年(1578)、自身が仕えた村重が信長に叛き、居城の有岡城で挙兵したことから再び試練に直面する。

 当時、信長は大軍勢を催し、配下だった右近の高槻城を包囲してパードレらを拘束し、降伏に応じなければ、「高槻城の前で彼らを処刑。領内のキリシタンは皆殺しにし、教会を破却する」と脅迫。

 右近は有岡城に一子を人質として差し出し、飛騨守も頑なに降伏に応じなかったことから家督を父に返上し、余生は教会のために尽くすと決めて髪を下ろし、紙衣(和紙の着物)姿で城を抜けて信長の元に伺候した。

 結局、有岡城は落ち、人質も無事に返され、右近はこのときに一度、武士を捨てていたのだ。

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