■国外追放後にマニラで人生に幕を下ろした!

 その後、右近は再び城主に戻り、信長が天正一〇年(1582)六月に本能寺の変で明智光秀に討たれると、安土にいたパードレらは沖島(近江八幡市)に逃走。

 光秀は摂津衆である右近を味方に引き入れる狙いでキリシタンを保護したが、パードレらがゼウスの名を出して「謀叛人に味方せぬように」と伝えてきたことから右近は秀吉の軍に加わった。

 そして、この右近ら摂津勢の活躍により、秀吉は信長の弔い合戦(山崎の合戦)に勝利。京の大徳寺で信長の葬儀が営まれ、右近も立場上、参列した。

 当然、仏前における焼香は偶像崇拝を禁じるキリスト教の教義に反し、かといって焼香を拒めば、秀吉に手討ちにされかねない中、右近は信念を貫いた。

 ここまで敬虔なクリスチャンだったからこそ、秀吉のバテレン追放令にやすやすと屈するわけにはいかなかったのだ。

 こうして「ゼウスのために大名をやめた男」は、徳川時代に再びキリシタンが迫害されると、国外追放となり、慶長一九年(1614)、ルソン(フィリピン)のマニラへ渡り、その翌年に他界。

 右近は二一世紀に入り、カトリックで「聖者」に次ぐ「福者」の地位を与えられ、2017年にローマ法王の代理で枢機卿らが来日し、大阪で盛大に列福式が営まれた。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

あわせて読む:
・対外強硬論者は単なるイメージ!?徳川斉昭「攘夷の巨魁」は演技だった?
・ダウンタウン松本・浜田共演「歴史的」ラジオに泥?「絶対タブー・宮迫博之」乱入
・吉沢亮『青天を衝け』地味テーマを一変させた“希望しかない”オーラ
・江戸幕府“第九代将軍”徳川家重“女説”の裏に「脳性麻痺」の疑い

  1. 1
  2. 2