遊郭で男芸者も務めた異端の絵師・英一蝶「流罪の原因は将軍の母!?」の画像
写真はイメージです

 元禄時代を代表する芸術家(絵師)で、幇間(太鼓持ち)として酒席を盛り上げた芸人の英一蝶。彼は江戸時代を代表する奇人の一人としても知られ、一一年間の島流し中に、三宅島で生計を立てるために描かれた風俗画などは「島一蝶」と呼ばれ、古美術品として非常に価値が高い。

 その一方で、配流の理由については諸説あり、五代将軍の徳川綱吉や、彼が制定した「生類憐みの令」が関係しているなどともされ、真相は謎だらけ。

 なんともミステリアスな絵師はいったい、どんな生涯を送ったのだろうか。

 一蝶は伊勢亀山藩主である石川主殿頭憲之の侍医だった多賀白庵の息子に生まれ、一五歳のときに父の“転勤”に伴って京から江戸に出た。

 幼い頃から絵の才能に溢れ、医師である父は自分と同じ道に進むことを望んでいたかもしれないが、主殿頭憲之の命で当時、将軍家の御用絵師として画壇の中心にいた狩野安信に師事。

 ところが、彼は狩野派の画風よりも風俗画を代表する岩佐又兵衛や菱川師宣に刺激を受け、のちに「岩佐、菱川が上に立たん事を思いて……」と述懐したように二人をライバル視し、洒落っ気に富んだ作品を数多く残して人気画家となった。

 そんな彼が英一蝶を名乗ったのは赦免されて江戸に戻ってからのこと。それまでは多賀朝湖を名乗り、俳人である宝井其角を通じて彼の師匠だった松尾芭蕉とも親交を結ぶなど、その才能は芸能の分野にも及び、いわゆる、お座敷芸にも長けた。

 実際に吉原遊郭ではいっぱしの幇間として、豪商である奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門らから重宝され、江戸時代半ば以降に流行した大尽舞(吉原の名物を語った道化舞)では「(茂左衛門)に付き添う太鼓は誰々、一蝶民部」と謳われたほど。「民部」は別の幇間で、本職は仏師。絵師と仕事で組む機会もあることから彼に芸の道に誘われたのかもしれない。

 一九九九年に放送されたNHK大河ドラマ『元禄繚乱』では奇しくも現在、芸人と画家の二足の草鞋を履くことで知られる片岡鶴太郎が一蝶役を演じた。

 そんなマルチな才能を発揮した一蝶は元禄六年(1693)、四二歳で入牢を申し渡されると、一度は釈放されたものの、五年後に三宅島に流罪となった。彼はいったい、何をやらかしたのか。

 その理由については前述のように諸説あるものの、特に次の四つが代表的だ。

(1)『当世百人一首』で将軍綱吉の政道を批判した

(2)『朝妻舟図』で綱吉の側室・お伝の方を白拍子(遊女)に見立て揶揄した

(3)綱吉の生母・桂昌院の甥である本庄安芸守資俊らを吉原に誘い、遊女を身請けさせた

(4)「馬がもの言う(予言する)」という流言を飛ばし、綱吉の「生類憐みの令」を批判した

 中でも(3)と(4)が有力。桂昌院(お玉)は京都堀川の八百屋仁左衛門の次女で、二条関白家の家司である本庄宗正の養女として大奥に入り、春日局に見出されて三代将軍家光の側室となって綱吉を生んだ。

 そして、桂昌院の異父弟である本庄宗資は彼女の縁で綱吉に引き立てられ、幕府の御家人を経て常陸笠間藩主となり、その次男の若狭守資俊がやがて二代目の本庄家笠間藩主を継いだ。

 明治・大正の著名な江戸風俗研究家である三田村鳶魚は自身の著書である『江戸ばなし』で、概ね次のように書いている。

 幇間の民部が資俊の妾(桂昌院の女中)を下げ渡されていた関係で、彼を吉原通いさせたことがそもそもの始まり。
この件に一蝶も絡み、彼らが資俊に茗荷屋の大蔵という遊女を紹介したところ、奴傾城と呼ばれた彼女がたった一回のお座敷で若殿様を篭絡。

 すると、資俊は帰り掛けに「今年いっぱい揚詰め(一人の遊女を独占して遊興に耽ること)にせよ」とまで命じる始末で、吉原通いに入れあげた。

 当然、民部や一蝶も「桂昌院さまのお耳にこのことが入ったら……」と不安に思わないこともなかったが、彼に催促されて千両という大金で大蔵を身請けさせた。

  1. 1
  2. 2