東洋のベニスと呼ばれた環濠都市「堺」を国際貿易港に導いた商人!の画像
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〈甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる〉

 戦国時代に日本で布教活動を行った南蛮人宣教師のガスパル・ヴィレラは当時、環濠都市「堺」を自身の書簡でこのように表現した。

 とはいえ、この“東洋のベニス”も平安時代は熊野詣での参拝路に過ぎず、鎌倉時代も単なる漁村だった。

 その堺がなぜ、当時の日本を代表する国際貿易港に発展したのか――。

 堺の地名は摂津、河内、和泉の国境に位置することに由来し、現在、町を東西に走る大小路筋の北側が旧摂津国で、南側が旧和泉国と考えられている。

 中世の初めに堺荘という荘園が置かれて以降、摂津側が堺北荘、和泉側が堺南荘と呼ばれて主に後者が町の発展の中心となり、後醍醐天皇の朝廷が征夷大将軍の足利尊氏に追われて吉野に逃げた南北朝時代に港としての重要性が認識されるようになり、物資を調達する重要な窓口(外港)となった。

 実際、後醍醐天皇が崩御したあとに南朝を継いだ後村上天皇は守護らに綸旨を発し、南荘に着岸する船に対して乱妨を禁じた一方、北朝も後光厳上皇が対抗するように、停泊中の船から港の利用料として「泊船目銭」を徴収することを画策。

 史料に南北朝が和睦して内乱が終わった頃、納屋という屋号の商人が登場することから堺の港には当時、すでに“倉庫”が立ち並んでいたようで、貿易港としての基礎が構築されつつあった町の発展は、日明貿易によって決定的となった。

 当初、貿易の窓口となる港は「博多」や「兵庫」だったが、応仁の乱(1467)が始まった頃から堺の商人も加わって遣明船の発着港となり、天文一二年(1543)に種子島に鉄砲が伝わると、彼らはすぐ、その製造技術を持ち帰って大量生産に成功。

 日明貿易に次ぐ第二の発展の契機となり、堺の寺に寄付をした者の名簿にはその頃、納屋の他に米屋、銭屋、薬屋、扇屋、絹屋、布屋などといった商いの品目を示す屋号が並んでいる。

 むろん、その賑わいは海外にも知られていたようで、天文一九年(1550)に来日したキリスト教宣教師のフランシスコ・ザビエルは堺を訪れた際、ここに公使を置いて倉庫を建てることをマラッカ総督に手紙で推奨。堺はこうして「長崎」や「平戸」とともに南蛮貿易の拠点となり、その富にやがて諸大名が狙いを定めるようになったため、地元の商人らが三方に壕を築いたうえで、傭兵を雇って守護らを排除したことから「自治都市」となった。

 その主体が前述のヴィレラが記した〈執政官〉で、これまで「えごうしゅう」と呼ばれてきた「かいごうしゅう(会合衆)」。

 彼らは堺が永禄一一年(1568)に上洛した織田信長から矢銭二万貫を要求され、一時は突っぱねたものの、結局は屈して自治都市としての歴史に幕を閉じるまで、南荘の鎮守である開口神社の会所で自治を担った。

 その数は三六人といわれてきたが、当初は一〇人で、その中には千利休、今井宗久、津田宗及の名も含まれている。

 改めて説明するまでもないと思われる利休以外の二人についても、ここで簡単に触れておきたい。

 まず、今井宗久は有名な茶人だった一方、戦国時代を代表する武器商人、いわゆる“死の商人”。本願寺の寺内町である大和国今井(奈良県橿原市)で商いを始め、堺が南蛮貿易で活気づいた頃、納屋宗次という商人に身を寄せて修行を重ねたという。

 彼はその後、独り立ち。先見の明があったようで、鉄砲時代を予測し、火薬の原料(硝石)を買い占めると、河内鋳物師を集めてその生産に乗り出した。

 また、宗久はやはり著名な茶人で堺の豪商だった武野紹鴎(利休はその門弟)の娘婿となり、彼の死後、その長男が当時、幼少だったことから武野家の財産を委ねられた一方、茶会を通じて武将や堺の豪商にも人脈を広め、会合衆となった。

 前述のように信長から二万貫の矢銭を要求されて会合衆の意見が分かれた際、彼はひそかに堺を抜け出し、茶器の名品「松島の茶壺」や「紹鷗茄子」などを献上し、矢銭の支払いに応じるよう他の会合衆を説得して回っている。

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