■商人たちの活躍により国際貿易港に発展した

 こうして信長に取り入った宗久は塩合物座(塩魚や干物を扱う商人組合)の権利や淀川通行船の関税免除、生野銀山の開発特権を認められ、鉄砲の大量生産はもとより、火薬を海外から調達して彼の天下統一を下支え。

 信長の死後も豪商として地位を保ったが、豊臣秀吉が千利休を重用したことから政商としての地位を奪われた。

 一方、津田宗及は千利休や今井宗久とともに「茶の湯の天下三宗匠」の一人で、成り上がり者の後者と違い、堺の豪商だった天王寺屋の三代目。

 初代の津田宗伯が摂津国天王寺から堺に移り住んだため、天王寺屋を屋号にしたという。

 天王寺屋は琉球や九州との交易で稼いだことから財力に富み、応仁の乱で被災した京の大徳寺(北区)に多額の援助を行ったほど。

 もともとは石山本願寺の御用商人であり、宗及は本願寺の坊官下間氏や三好三人衆の一人である政康と通じていた。

 このため、信長が三好三人衆を追って上洛し、堺に矢銭を要求すると、今井宗久とは逆の立場から彼の堺進出を阻もうとした。

 しかし、最後は信長に屈服し、堺にその代官を受け入れて彼に急接近。 彼が書いた『天王子屋会記』によると、明智光秀の居城である坂本城(滋賀県大津市)の茶会に呼ばれた際、その後に城に係留されていた大きな御座船に乗り、湖水を渡って信長の居城である安土(銅剣近江八幡市)に向かった。

 彼もまた、茶の湯を武器に信長の信用を勝ち取り、堺が国際貿易として成長した背景には、こうした商人の活躍があったと言える。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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