徳川幕府初期のブレーンを担った儒学者・林羅山「露骨な権力志向」の画像
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〈武士道〉――〈江戸時代に入り、朱子学を中心とする儒教の影響を強く受け体系化されたもの〉(『ブリタニカ国際百科事典』)

 忠義を重んじて恥を嫌った江戸時代の「侍」。その本質は当時、官学となった朱子学なくして語ることはできない。

 中でも、その普及に貢献した林羅山は異色。よく言えば、既存の概念にとらわれない気性だった反面、聖人君子の印象が強い儒学者とは一線を画し、出世欲が剥き出しの前半生を送った――。

 羅山は京の四条新町に店を構える商人の子どもに生まれ、幼少期に自身のそばで浪人が読んでいた『太平記』を暗記したとされるように、驚異的な記憶力の持ち主だった。

 当時、天才といわれた少年が寺に入って学問を修めたように、彼は京都五山の一つである建仁寺で修行。もともと僧になるつもりはなく、仏教に特別、関心があったわけでもなかったためか、一五歳のときに剃髪(出家)を勧められて寺を去った。

 これは無常観に基づく仏教の思想とは対照的な儒学、中でも朱熹の教えである朱子学を極めようとしたからで、時代のパイオニアと言うべきチャレンジ精神の発露と見ていい。

 その羅山はまた、信長や秀吉の時代に南蛮から渡来したとされるタバコを非常に好んだヘビースモーカーで知られ、二一歳だった慶長八年(1603)、その進取の気性を物語るように朱熹の『論語』注釈本について、大勢の前で講義。

 論語の講義は当時、明経博士の清原家(公家)の専売特許で、羅山の行動は今なら、在野の若い学者が、その道の権威である大学教授を飛び越えて大学に乗り込むようなもの。

 当然、清原家は朝廷の許可を得ていないと訴えたが、当時は無名だった羅山にすれば、名前を売る好機となり、彼の目論見はこの翌年、近世儒学の祖といわれる藤原惺窩に会う機会を得たことで実現する。羅山は彼に初めて会ったとき、儒学者の大先輩に論争を挑んだのだ。

 惺窩は高潔な人柄で、すでに当時、徳川家康に謁見して儒書を講じ、羅山の狙いを喝破したようで、彼に「汝は何をもって学となすと思うや。もし名を求め、利を思はば、己がためにする者にあらず」と忠告。それでも羅山の博識を認めて弟子とし、これが彼の飛躍を大きく後押しした。

 羅山は慶長一〇年(1605)四月に惺窩の周旋もあり、京の二条城で家康に謁見。惺窩に近侍を拒まれて代わりに弟子の登用を考えた家康に難問を投げ掛けられ、羅山の伝記である『年譜』に、その“採用試験”の一端が次のように掲載されている。

家康「後漢の光武帝は高祖(漢を建国した劉邦)の何代目か」

羅山「九世代目にございます」

家康「漢の武帝の反魂香(死者の霊魂を招くための香)はどの書に記載されているか」

羅山「漢代の『史記』( 司馬遷の歴史書)と『漢書』にはございません。『白氏文集』(唐の詩人白居易の文集)の新楽府および蘇東坡(北宋の詩人)の『詩註』に記載されております」

家康「屈原(中国・戦国時代の詩人)の愛した蘭の種類は何か?」

羅山「朱文公(朱熹の尊称)によりますと、沢蘭でございます」

 結果は全問正解。羅山はその記憶力と読書量の甲斐もあって幕府の儒官となったものの、家康に剃髪を命じられた。当時はまだ、儒官の地位が確立せずに蓄髪が認められておらず、家康としても彼を僧として扱うことで厚遇したつもりだったのだろう。

 だが、前述のように剃髪を拒んで建仁寺を飛び出した羅山にすれば、屈辱的な命令だったものの、幕府に仕えた身分を失いたくなかったようで、結果的には権力に対するこうしたおもねりが後世、批判を招き、それは「方広寺鐘銘事件」で決定的なものとなった。

 これは慶長一九年(1614)、豊臣家が南禅寺の僧である文英清韓に選定させた方広寺の鐘銘が、大坂冬の陣の引き金になったとされる事件で、羅山は当時、徳川家におもねって彼にこう言い掛かりをつけた。

羅山「無断で家康公の諱を使う行為そのものが無礼不法の至り。加えて国、家安、康とは何事か。諱の家と康の字を分断しているではないか」

清韓「(家康公の)名乗りの字を“かくし題”として、四海太平が長久に続くようにとの思いから国家安康の文字を使った」

羅山「君臣豊楽とは、豊臣家を君主として子孫の殷昌なるを楽しむと読める。これは(徳川家)を呪詛する下心を隠して、(豊臣)秀頼の現世の繁栄を願うものではないか」

清韓「これも(豊臣の)かくし題にすぎない」

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