上杉家による関東支配に終止符!本家と分家の抗争「19年の修羅」の画像
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 関東地方における戦国時代は事実上、享徳の乱(1454〜1482)でその幕を開け、当時は味方だった山内上杉家と扇谷上杉家が一転、長享の乱(1487〜1505)で対立して衰退したことから勢力図が一気に塗り替えられた。

 上杉といえばやはり、越後の戦国大名である上杉謙信が真っ先に思い浮かぶが、そもそも、どういう一族だったのか――。

 上杉氏は公家の勧修寺流藤原氏の出身。鎌倉幕府の六代将軍となった宗尊親王の関東下向に供奉した始祖の重房が、武家に転身して丹波国の上杉荘(京都府綾部市)を領し、孫の清子が足利貞氏に嫁して尊氏(室町幕府初代将軍)と直義の兄弟を産んだことから将軍家に重用された。

 その後、尊氏の四男である基氏が初代関東公方となって鎌倉で関東の政務に当たると、上杉憲顕がその執事役である関東管領に補任され、上杉氏はほどなくして枝分かれ。

 宗家の屋敷が鎌倉の山ノ内にあったことから山内上杉家と呼ばれた一方、同じく扇谷の一族が扇谷上杉家を称した。

 前者はその後、当主の憲政が越後守護代だった長尾景虎に支援を求める代わりに関東管領職と上杉姓を譲渡。

 景虎が後に上杉謙信に改名した一方、扇谷上杉家は山内上杉家の風下に立たされてきたが、“容貌端正にして英気凛然”といわれた武将で江戸城を築いたことで知られる太田道灌の登場により、宗家と肩を並べることになる。

 道灌が扇谷上杉家の家宰(家老)を父から継いだ当時、関東は前述の享徳の乱の真っ只中にあり、関東公方の足利成氏が享徳三年(1454)一二月、関東管領の上杉憲忠(山内家)を御所に招いて謀殺したことがその発端。

 成氏は戦渦が拡大する中、鎌倉を捨てて下総国古河に入り、古河公方と呼ばれた彼と両上杉氏が争い、京の幕府が伊豆の堀越(伊豆の国市)に送った足利政知(堀越公方)を支えたというのが戦いの構図だった。

 こうした中、道灌は扇谷上杉定正の家宰として堀越公方陣営に属して、古河公方陣営になっていた長尾景春方の拠点を攻略。

 味方の陣営を一気に立て直し、長尾軍を用土原(埼玉県寄居町)の合戦で打ち砕いたことで、景春に期待していた成氏が和平を望み、紆余曲折を経て両上杉と和睦が成立し、彼は文明一四年(1482)、正式に幕府から赦免され、三〇年近くに及んだ享徳の乱が終結した。

 だが、これが一九年にも及ぶ両上杉家の対立の呼び水となり、山内上杉顕定は大乱を一気に終結させた道灌、ひいては扇谷上杉家の影響力が増大することを警戒。

 道灌は文明一八年(1486)七月、扇谷上杉定正の居館だった糟屋館(神奈川県伊勢崎市)に招かれて風呂から上がったところ、曾我兵庫という上杉家の家臣に斬殺された。

 これは道灌が扇谷上杉の実権を掌握し、譜代衆の妬みや定正の疑心暗鬼が原因だった一方、顕定が彼をそそのかした可能性もあり、両上杉家の関係は道灌の死後に実際、険悪化。

 顕定は長享元年(1488)の前哨戦の翌年、越後守護家の上杉氏(謙信の旧主筋)とともに定正の本拠地だった相模国に侵攻し、道灌を欠いた扇谷軍は実蒔原(伊勢崎市)の合戦に勝利したものの、相模国内の要害を山内軍に落とされて劣勢のまま大乱に突入した。

 むろん、顕定が道灌を葬り去ったとすれば、予想通りの展開にほくそ笑んだはず。

 ただ、定正が享徳の乱で対立した長尾景春らと手を組み、扇谷軍は巻き返しを図って武蔵国須賀谷(埼玉県嵐山町)にあった山内勢の拠点を攻撃。

 死者七〇〇名余を出す激戦となり、定正は山内の勢力圏だった高見原(同小川町)でも矛を交え、武蔵国を舞台にした合戦では扇谷軍が優勢だった。

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