■ライバルは利害一致で一転して同盟を結んだ

 一度は上杉方になびいた関東の国衆の多くが北条方に復帰したのである。はたして、その要因はいったい、なんだったのか。こんな話がある。

 鶴岡八幡宮で儀式の最中、武蔵国忍城主(埼玉県行田市)の成田長泰に対し、「扇をもって謙信公、忍(長泰のこと)が頭を二つまで、したたかに打ち給ふ」(『松隣夜話』)とされる事件が起きた。

 謙信が長泰の頭を叩いた理由は些細なもの。長泰はそうしたことから謙信の仕打ちに恨みを抱いたとされる。

 早くから上杉方となっていた武蔵岩槻城主の太田資正でさえも、彼の欠点を「怒りに乗じて為し給ふところ」(『名将言行録』)と指摘しているほどだ。

 つまり、謙信は颯爽として神懸かり的なところもあった反面、“キレやすい”性格で、かたや敵対する氏康はまさに正反対。彼は飢饉で疲弊した民衆を救うため、徳政令を発布して撫民に努め、こうした二人の性格が影響したとまでは言い切れないものの、永禄三年から一○年まで連続して関東に攻め込んだ謙信に当初の勢いがなかったことも事実だ。

 特に永禄九年(1566)三月、謙信が関東勢だけで一万を超す大軍勢を率い、氏康に従う千葉一族が籠る下総臼井城(佐倉市)を攻めた際は象徴的。

 謙信はこのとき、氏康の援軍を得た籠城衆に散々に打ち破られて面目を失い、これが勢威を失う一因となった。

 だが、こうした中、一方の氏康にとってもまさに驚天動地の事態が起きる。それまで西上野に進出して謙信を牽制していた信玄が三国同盟を破り、今川氏の領国である駿河に攻め入ったのだ。

 義元亡きあとの当主である今川氏真の正室は氏康の娘。氏康は当然のように激怒し、駿河に援軍を送って信玄と断交すると、今度は宿敵だった謙信に同盟を申し入れ。

 まさに“敵の敵は味方”という戦国時代らしい発想で、謙信にしても関東攻略が思い通りに運ばず、同盟によって関東管領としての立場を氏康に認めさせる利点はある。

 こうして永禄一二年(1569)に越相同盟が成立。

 だが、元亀二年(1571)にその立役者だった氏康が他界したことから、この同盟は破棄され、上杉氏と北条氏の抗争は終わることなく次のラウンドに入り、このあとも続いたのだった――。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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