本誌で好評連載中の『コント赤信号 渡辺正行 スター芸人たちの“笑いと涙”』。その特別編として、明治大学落語研究会の先輩・三宅裕司さんを迎えた対談を掲載! 後編の今回はテレビでのコントや司会、人気劇団『熱海五郎一座』の公演など、つきあいの長い2人だからこそ話せるエピソードの数々をどうぞ!
渡辺 三宅さんが、テレビで初めて看板番組を持ったのは、いつなんですか?
三宅 1984年10月から半年間、放送された『いい加減にします!』(日本テレビ系)だね。プロデューサーが、俺が主宰する劇団『スーパー・エキセントリック・シアター(SET)』を気に入って、俺がメインのコント番組を持たせてくれたんだ。
渡辺 そうでしたか。
三宅 初期のレギュラーには、植木等さんがいてね。俺は少年時代から『ハナ肇とクレージーキャッツ』の大ファンだったから、ホントに、うれしかったなあ。
渡辺 だって、学生時代に落研の仲間と三宅さんの実家に泊まると、よく早朝にクレージーキャッツの曲をかけてましたもんね。
三宅 みんながまだ寝てるところに、『馬鹿は死んでも直らない』を最大のボリュームにしてね(笑)。
渡辺 そしたら、すぐに起きて、音楽に合わせて踊らなきゃいけない。でも、途中から、誰もがバカ笑いしてるんですよ(笑)。
三宅 で、植木さんはその番組で、代表的なギャグの「お呼びでない?」までやってくれたんだよ。憧れの人と一緒にコントができて、いろいろ学べたことは、今でも俺の宝物だね。
渡辺 いいですねえ!
三宅『てんぷくトリオ』時代の姿をずっと観てた伊東四朗さんも、ゲストで1回来てくれたら、あまりにも息が合うんで、レギュラーになったんだよ。そのとき、伊東さんがこう言ってくれてね。「自分のコント番組なんだから、好きなようにやらないとダメだよ」って。確かに、それまで大御所がゲストで来ると、遠慮して、自分の笑いがなかなかできなくて。でも、そのひと言で吹っ切れたんだ。だから、植木さんにしても伊東さんにしても、俺は、いい先輩に恵まれてるよ。