■2対4のトレードはもはや伝説

 そんな江本も2度にわたるトレードの経験者だ。特に75年、阪神の江夏豊・望月充、そして南海の江本・島野育夫・長谷川勉・池内豊の2対4のトレードは、もはや伝説だ。

「球団から“阪神へ行ってくれ”と言われて、相手を聞いたら、江夏だと。野球はどこでやっても一緒だし、私自身は“しょうがないか”という感じでした。選手兼監督だった野村(克也)さんからも直接、言われたよ。“俺は江夏を仲間にしたい。あいつの球を1回、受けてみたい”って」(前同)

 南海に移籍した江夏は、野村監督の「野球に革命を起こしてみんか?」の殺し文句とともに、リリーフに転向。抑え投手という役割を日本球界に定着させた“美談”としても知られるが、当時のトレードには複雑な思惑が絡むことが多かった。

「私が南海に行った最初のトレードも“野村が江本に惚れ込んだ”的な見方をよくされますが、実際は違う。野村さんの一番の目的は、正捕手の地位を脅かしかねない存在だった高橋博士さんをヨソに出すこと。そこに東映が手を挙げて、安い私がつけられた、というのが真相です。入団から1年たたずにトレードされた選手なんて、私ぐらいのもんですよ(笑)」(同)

 一方、江本が移籍した75年オフ。同じく阪神には水面下で成立直前まで進んだ別の大トレードがあった。その当事者こそが、同年に高橋一三・富田勝とのトレードで日本ハムから巨人へと移籍した張本勲だった。

「当時は、73年に東映から日拓、翌年に日本ハムへと親会社が移った混乱期。東映カラーの一掃に動く新社長・三原脩との確執も深まり、移籍を模索する張本の退団は既定路線でした。そんな中、自ら売り込む彼に、二つ返事で応諾したのが吉田義男の阪神。当の張本も前のめりで、甲子園に近い宝塚に“土地も買っていた”と、のちに述懐しています」(前出の元記者)

 だが、そこに遅れて舞い込んだのが、球団初の最下位に甘んじた“ミスター”、巨人・長嶋監督からのオファー。幼い頃から憧れた巨人、まして“同級生”の王貞治もいる。吉田も張本の意を汲んで、「よかったやないか、頑張れ」と背中を押したという。

「3番に張本が座ったことで、前年に連続本塁打王記録が途切れていた王が復活したのが大きい。かたや張本もシーズン安打で自己最高を更新。ミスターがたった1年でV奪還できたのは、ひとえに“OH砲”の活躍のおかげでしょう」(前同)

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