王政復古政府最初の「小御所会議」徳川氏処分決定までの論戦舞台裏の画像
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 元号が明治に改まる約十ヶ月前、徳川家支配の終焉を告げる歴史が京都御所の一室で作られた。

 慶応三年(1867)一二月九日に王政復古の大号令で江戸幕府と摂政、関白が廃止され、新たに設置された総裁と議定、参与の三職が小御所で初となる会議を開催。天皇臨席の下、この日に発足した明治新政府から徳川慶喜を排除しようとする勢力が処分に反対する公儀政体派を押し切り、彼の官位辞退と領地の返上が決まったのだ。

 では当時、御所の一室で、どんな論戦が繰り広げられたのか――。

 反・徳川派だった公卿の岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通は、この約二ヶ月前、大政奉還が実現したものの、徳川家主導になることを嫌い、幕府の廃止を狙って新政権を樹立させるクーデター計画を練り始めた。

 これは皇居の内外を兵で固めて慶喜の参内を阻止し、そのうちに重要案件を決めるという企みで、当時は薩摩藩の他、朝廷に命じられて上洛していた土佐藩、芸州藩、尾張藩、越前藩の各藩兵がクーデターに参加。

 尾張は徳川御三家で、越前も同家一門だったため、信頼できるパートナーとは言えず、岩倉と西郷らの計画は決行直前まで三藩には伝えられていなかった。

 一方、公儀政体派である土佐藩士の後藤象二郎は事前に計画を知らされていたものの、彼は旧態依然とした朝廷の組織や人事を改めるためにはクーデターも辞さずと考えていた程度で、薩摩藩とは確実に温度差があった。

 こうして諸藩の思惑が複雑に交錯する中、小御所会議当日の一二月九日午前八時頃、朝議を終えた摂政以下の公卿が退席すると、五藩の藩兵が御所を封鎖。

 一部の公卿とクーデターに参加した大名だけが参内し、岩倉が御学問所で明治天皇を前にして王政復古の大号令を読み上げ、夜になって隣にある小御所で新政権発足後、初めて会議が開かれた。

 当時、天皇が一の間に御簾を隔てて座り、二の間の両サイドに皇族や公卿、議定である大名(尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、薩摩の島津茂久、芸州の浅野茂勲)が、三の間に大久保利通ら藩士クラスの参与が控え、西郷は五藩の藩兵を率い、御所内外を警護。

 会議に参加した岩倉や浅野茂勲、越前藩士である中江雪江の日記には当時の様子が詳細に記録され、それによれば、天皇の祖父である中山忠能がまず、「無私の公平をもって王政の基本を確定させよというのが叡旨(天皇の仰せ)である」と開会を宣言。

 土佐の山内がすぐさま、「それならば、大政を奉還した徳川内府(慶喜のこと)をこの会議に招くべきではないか」と異論を唱えると、公卿の大原重徳がこれに噛みつき、議論が白熱した。

 大原「内府が大政を奉還したといっても、本当に朝廷へ忠誠を誓うという意味でなされたのかどうかはわからぬではないか」

 山内「今日の挙はすこぶる陰険だ。諸藩の兵が武装し、宮門を護衛している中でおこなわれているからだ。王政は(天皇の仰せ通り)公平無私の心で実行されなければ、とても天下の人心が帰服するところではない。元和偃武ぶ(豊臣家を滅ぼし、徳川家が天下泰平の世をもたらしたこと)以来三〇〇年の大功ある徳川家を由なく排斥することはあってはならない。また、内府(慶喜)の英明さは天下に知られている。速やかに朝議に招き、意見を聞くべきである」

 山内はここまで一気にまくし立てたものの、ここで口を滑らせる。

 山内「二、三の公卿がどのような考えでこのような陰険を働くのかはわからないが、幼少の天子(明治天皇)を擁し、権力を奪取せんという企てがあるなら、天下の乱れとなる」

 岩倉「天皇の御前での会議ですぞ。それはあまりに礼を失した言葉であろう」

 山内もさすがに言い過ぎと思い、失言だったと詫びたが、越前の松平が彼を支持したことで、風向きが変わった。

 松平「数百年の太平をもたらした徳川家の大功は今日の罪を補うに足る。よって容堂公の意見をいれるべきである」

 岩倉「家康公が太平な世をもたらしたとはいえ、その子孫は皇室を見下し、公卿や大名らを圧迫している。また、嘉永(ペリー来航を指す)以来、勅命を軽んじ、専断をもって欧米諸国と貿易し、国を憂う親王・公卿・大名を廃し、勤王の志士らを殺害したではないか。内府(慶喜)が本当に反省しているのなら、ただちに徳川家の領地と人民を朝廷に返還すべきだ」

 これこそが岩倉と大久保、西郷の狙い。慶喜に官位と徳川家の所領をすべて返還(辞官納地)させ、徳川家を無力化させようとしたのだ。

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