894年の半世紀前に派遣終了!白紙に戻そう遣唐使「廃止の真相」の画像
写真はイメージです

「白紙に戻そう遣唐使」――寛平六年(894)、のちに右大臣となる菅原道真によって遣唐使が廃止された。

 だが、遣唐使の使命は実際にはこの半世紀も前にすでに、承和五年(838)の第一九回派遣で終わっていた。

 ではなぜ、「白紙に戻そう」が歴史の常識として定着したのか。

 むろん、単なる語呂合わせのためだけではない。その謎を解き明かすためにはまず、古代の日中関係を振り返る必要がある――。

 日本は五世紀の倭の五王の時代、中国南北朝の南朝諸国に朝貢し、六世紀に入って外交を鎖したが、推古天皇とその執政である厩戸王(いわゆる聖徳太子)が六〇〇年、ほぼ一世紀ぶりに使節を遣わした。一回目の遣隋使派遣である。

 使節は当時、朝廷の制度が隋に比べて遅れていることを痛感。六〇七年に第2回として小野妹子が派遣され、その国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきか云々」(『隋書倭国伝』)とあり、厩戸王が対等外交を求めたものとして高く評価されてきた。

 ただ、「日出づる処」は単に東、「日没する処」も同じく西という方角を示した表現に過ぎず、近年は必ずしも対等外交を意味するものではないと理解されるようになった。

 いずれにせよ、朝廷は当時、あくまでも国家制度や先進技術などを輸入する狙いで中国に使節を送っただけ。倭の五王時代のような朝貢の意思はなく、やがて隋が倒れて唐が建国されると、六三〇年に初めて遣唐使が派遣され、中止を挟みながらも、ほぼ二〇年に一度のペースで唐の先進文化が日本にもたらされるようになった。

 すると、「唐物(中国からの渡来品)」がやがて貴族らのステータスとなった一方、当初は国家プロジェクトだった遣唐使派遣が次第にイベント化。使節とは別に中国商人らによって唐物が持ち込まれるようになったことで、遣唐使を派遣する意義そのものが次第に失われた。

 こうして仁明天皇の治世に当たる承和年間になると、輸入品は仏教の経典や密教の秘法程度となったが、太元帥明王を本尊とし、敵軍降伏のために修する太元帥法を最後の遣唐使が持ち込んだ。

 政府は当時、仏教によって国を治める「鎮護国家」を標榜し、この秘法は後に平将門と藤原純友が反乱した際(承平天慶の乱)にも用いられた重要なもの。

 当然、これを持ち帰るために大きな犠牲を払い、承和元年(834)に派遣が決定した際、遣唐使は二回、渡海に失敗。『最後の遣唐使』(佐伯有清著)によると、「南海の賊地」と呼ばれる海域で漂流して亡くなった者らを含めると、当初の遣唐使六百数十名中、その約四割が海の藻屑と消えたという。

 多大な犠牲のわりに成果が少なく、その後、二〇年が経っても遣唐使が事実上、自然消滅する中、寛平六年に突如、派遣話が浮上。

 朝廷に前年三月、中国に留学中だった僧の中瓘から派遣を求める上表文が届き、決定を伝える返書が翌寛平六年七月二二日付で送られ、八月二二日に菅原道真が大使に、紀長谷雄副大使にそれぞれ任命された。だが、道真が宇多天皇に派遣の中止を求めた結果、九月一四日に突然、取り止めが決定。

 まさに白紙に戻り、一連の経緯からして、確かに当時、派遣が計画されたように映るが、中止の理由はなんだったのか。

 道真が唐の凋落と航路をその理由に挙げたように実際に当時、その国内では七五五年に地方長官の安禄山が挙兵し、乱は一度、鎮まったものの、八七五年に黄巣らを中心に農民反乱が勃発。黄巣が一度、皇帝になる混乱の果て、一四年後の九〇七年に唐は滅亡した。

 とはいえ、朝廷は唐の凋落ぶりをすでに、前述の中瓘から報告されて十分に把握。

 一方の航路に危険が伴うことはこのときに始まった話ではなく、言ってしまえば遣唐使の宿命で、道真は適当な理由を挙げて反対したに過ぎない。

  1. 1
  2. 2