「天下一の裏切り者」小早川秀秋、巷間伝わる「呪殺」の真相の画像
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 戦国武将の小早川秀秋は、“天下の裏切り者”とされる。

 豊臣秀吉が没し、徳川家康と石田三成が天下を賭け、美濃関ケ原で合戦の火ぶたが切られると、やや西軍(三成方)優勢で推移していたところ、大軍を率いて松尾山に陣を敷いた小早川勢がにわかに東軍(家康方)へ寝返り、天下の形勢は一決する。

 秀秋の裏切りを予測していた大谷吉継(三成の盟友)が必死の抵抗を試みるも、手勢は壊滅。病で当時すでに光を失っていた吉継は、白眼で彼方を見やり、「秀秋の無事は三年は過ごすまじ」と呟き、無念の自害を遂げた。

 事実、秀秋はこの二年半後、二一歳の若さで死去する。急死であったため、「大谷吉継の恨みで亡くなった」「呪い殺された」――などと語り継がれることになるが、むろん、呪いで人が殺せるはずはない。その真相に迫る前に、まず秀秋は、どんな武将だったのか見てみよう。

 生まれは本能寺の変があった天正一〇年(1582)。豊臣秀吉の正室・北政所(おね=高台院)の実兄・木下家定の五男で、まだ幼児の頃に秀吉の養子となって大切に育てられ、一一歳で中納言任官というスピード昇進を遂げる。やがて小早川家を継ぎ、朝鮮出兵では現地の大将格を務めた。誰もが認める豊臣政権のサラブレッドだったのだ。

 そして、慶長五年(1600)、天下分け目の年を迎える。その年の六月一六日、家康が会津の上杉景勝(西軍)を討つため大坂を出陣した隙をつき、三成が挙兵する。西軍はただちに家康方の伏見城を攻め、秀秋もその城攻めに加わった。その後、北陸で東軍方の諸城を攻める大谷吉継の加勢に駆けつけようとするが、西軍の作戦が変更され、秀秋は美濃へ入り、松尾山に陣取った。この時点では、秀秋は西軍に属している。

 ところが八月二八日になって、東軍の先陣として美濃へ進軍していた浅野幸長と黒田長政から書状が届く。ただの書状ではない。“小切紙”という形態の密書であった。要旨は、「二、三日したら内府公(家康)が美濃に入るので御忠節することが重要」、「われら両人は(北)政所様のために動いているのでこのような書状を送った」という内容。

 幸長は北政所の甥。長政も幼少の頃に織田信長の人質となり、当時、信長の武将であった秀吉に身柄を預けられ、北政所に養育された。だから幸長と長政が「政所様のために動く」というのはよく分かる。また、秀秋にとって北政所は養母。つまり、家康は東軍方の幸長と長政に北政所の縁を利用させ、秀秋を調略させているのだ。ただし、北政所が家康を支持していたかどうかは、はっきりせず、彼らの動きが本当に北政所のためであったかどうかも不明。

 ただ、合戦の前日(九月一四日)になって家康の重臣である本多忠勝と井伊直政の両名から、小早川家の家老二名に宛て起請文が差し出されているところからみると、秀秋は幸長と長政の要請に応じたのだろう。起請文には「内府(家康)は秀秋を疎かにしない」、「忠節をみせてくれたら秀秋に西国で二ヶ国の知行宛行状を与える」などと記載されていた。

 つまり、秀秋は開戦前日以前に、東軍への寝返りを決していたことになる。ところが、通説ではなかなか秀秋は陣から動かず、焦れた家康が松尾山へ一斉射撃すると秀秋はこの家康の恫喝に怯え、麓の西軍陣地へ討ちかかったとされる。寝返りを決めてもなかなか踏ん切りがつかない優柔不断な武将――この逸話から、そういう秀秋像が生まれた。

 だが、この逸話は一級史料では確認できず、今では史実かどうか疑われている。また、秀秋が開戦と同時に寝返り、東軍として戦ったことを窺わせる史料もある。

 そもそも三成は松尾山に新たな城を築き、家康に不得手な城攻めを強いる作戦だった。実際、松尾新城で伊藤盛正を守備につかせていたが、秀秋はその伊藤勢を追い払って松尾山に着陣したという。この時点で西軍は作戦を見直さざるをえず、叛意をのぞかせる秀秋を警戒していた。だからこそ、三成は盟友・吉継の大谷隊を小早川勢が陣取る松尾山の麓に配置したのだ。

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