■呪いのような症状だが本当の原因は「酒疸」!?

 となると、西軍優勢の中で突如、秀秋が裏切り、戦局が一転したという通説は見直さざるをえない。もちろん、裏切りは裏切りだし、戦局を分けた重大事件には違いない。だが、大谷吉継が「秀秋の無事は三年は過ごすまじ」という恨みの言葉を残して自害するような状況とも違う。

 そこで秀秋の死因が問題となる。たとえば、養母の北政所の意思だと思って裏切ったのに、それが養母の意思ではなかったと分かり、後悔の念にさいなまれ、病床に伏すようになったのだろうか。しかし、それなら急死という状況にそぐわない。

 秀秋は起請文通り、戦後、西国の備前・美作を賜り、岡山城に居城した。慶長七年(1602)の一〇月、秀秋は伏見から岡山へ帰り、一五日には鷹狩を行った。ところが、その日の暮れになって突然、床に伏す。いったん病状は回復するももの、一七日の早暁に死去した。

 彼は、曲直瀬道三の甥・玄朔の診察を受け、その内容を記した『天正医学記』によると、「酒渇(酒の飲みすぎで喉が渇くこと)」「嘔吐」、「胸中煩悶」、「全不食」、「尿赤」、「舌黒乾」という症状だったという。絶えず喉が渇き、胸が苦しく、食事が取れない状況が続き、さらに、血尿が出て、舌も乾いて黒かったというのだ。

 たしかに、呪いをかけられたような症状とも言えるが、玄朔は医師らしく、「酒疸(酒を原因とする黄疸=つまり、アルコール性の肝機能障害)」と診断した。

 じつは、秀秋は未成年の頃に酒の味を覚え、それが高じて酒浸りの生活を送ることになったと、生前の秀秋をよく知る公卿の近衛信尹(のちの関白)が書き残している。

 当時、豊臣家のプリンスだった彼のところに追従する者らが集まり、おだてられ、ついつい酒を飲むうちにアルコール依存症になったのかもしれない。

 天下の裏切り者といわれる武将の死因は意外なものであった。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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