幕末から明治にかけ、フランスなどで「ジャポニスム」と呼ばれる日本ブームが起きた際、それまでの西洋絵画の常識を一変させたといわれる浮世絵。その元祖といわれる菱川師宣はいったい、どのようにして浮世絵のジャンルを切り開き、その作品はなぜ、外国人の心を引きつけたのか――。
「浮世絵」は天和二年(1682)、井原西鶴が浮世草紙(『好色一代男』に代表される大衆小説の総称)を書いた頃、仏教用語の「憂世」から転じて定着した言葉。
この憂世が明るい印象の「浮世」に書き改められ、浮世絵の題材はそれゆえ、“江戸の二大悪所”といわれる芝居小屋と遊郭が多い。
浮世絵には師宣の「見返り美人図」などの肉筆画も含まれるものの、あくまでもメインは木版画。同じ版木から何枚も刷ることができたため、一点ものである肉筆画よりも安価だったことから庶民に広く受け、一色(墨)刷りだった浮世絵は後に多色刷りとなり、錦のように色鮮やかなことから吾妻錦絵、錦絵とも呼ばれる。
そんな浮世絵師として大成した師宣の生年は不明だが、明暦の大火(1657年)の直後に江戸に出たものとみられている。
当時、江戸は復興ブームに沸き、地方から職人らが流入。新しい娯楽が求められ、彼らはこぞって大衆向きの草紙類を買い求め、楽しみの一つがその挿絵だった。
師宣の経歴は彼が浮世絵師として大成したあと、次のように紹介されている。〈菱川といふ絵師、船の便りを求めて、武蔵の御城下(江戸のこと)にちつきまして、自然と絵をすきて、青柿のへたより心を寄せ、和国絵を風俗、三家の手跡を筆の海にうつして、これにもとづいて自ずと工夫して後、この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり〉(『武者大和絵づくし』序文)
千葉から船で江戸に出た師宣は当時、まだ〈青柿のへた〉のような青二才だったが、画壇の中心にいた三家(狩野派、土佐派、長谷川派)の画法を我流で吸収し、独自の作風を作り上げたという。
その師宣の実家の家業は縫箔師。刺繍と摺箔を用いて裂地に模様加工を施す技術者をいい、女性が着る小袖や能装束などの柄が彼らによって描かれ、師宣はこうして幼少の頃より絵に親しんだのだろう。
自然と絵師を志し、時代が挿絵画家を求めていたことも彼の人生を大きく左右した。
とはいえ、そんな彼も当時、自身が江戸文化を代表する絵画の祖になるとは夢にも思わなかったのではないか。
というのも、挿絵に作者が署名することは今でこそ常識となったものの、当時は無署名が当たり前だったからだ。
ところが、寛文一二年(1672)に刊行された『武家百人一首』に師宣の署名がある。
つまり、師宣は浮世絵の祖であると同時に、挿絵画家として初めて、作品に署名する人物にもなったのである。
その彼は明暦の大火が起きた直後、仮に二〇歳くらいで挿絵画家の仕事を始めたとしたら、当時は三〇代半ば。文字通り、苦節一〇年の下積み時代の成果と言えるのではないか。
こうして挿絵画家の地位を高めた師宣は、延宝六年(1678)に刊行された『吉原恋乃道引』をヒットさせた。
これは吉原で遊ぶ際の手引書で、道順や郭内の風俗、花魁道中の模様などを彼の絵で解説したもの。見開きページのほぼ全面に師宣の絵を配し、説明文はページの端に寄せられ、もはや挿絵ではなく、完全に絵がメイン。
彼はこのあと、浮世絵の原型となる作品を手掛けるようになり、その一つがやはり吉原を題材とした『よしわらの躰』という一二枚組みの木版画だった。
吉原遊郭の人々の暮らしを一二枚セットの揃い物で描いた作品で、いずれも吉原の風俗という共通のテーマがあるものの、それぞれ独立した墨刷りの一枚絵で、師宣は従来の挿絵を“独立”させ、一枚刷りの版画として浮世絵を確立。
彼の絵に対するニーズがそれだけ高まっていたためで、彼はまた、同じく一二枚組み一セットの春画を描き、版で刷ったあとに肉筆で彩色を施した。
前述の『よしわらの躰』がモノクロ版だったのに対し、こちらはカラー版。
師宣はこうしてますます名声を高めていき、工房を率いて多くの肉筆画を残し、元禄七年(1694)に没した。
彼が確立した一枚絵の浮世絵というスタイルは、のちに多くの著名な画家に引き継がれ、幕末には日本の絵画を代表する芸術作品にまで成長した。