ニッポン絵画界最大の絵師集団!狩野派「画壇支配400年のルーツ」の画像
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 織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第などにきらびやかな金碧障壁画を残したのが、絵師の狩野永徳。彼の作品は桃山文化を代表し、狩野派は江戸時代になると、幕府の御用絵師として画壇を支配し、当時、人気だった英一蝶や伊藤若冲らに軒並み、影響を与えた。

 だが、永徳の曾祖父である始祖の正信の前半生は多くの謎に包まれ、実際、出身地についても伊豆と上総の二説がある。

 いずれの説でも狩野氏は伊豆の狩野川上流に盤踞した武士の一族で、正信の父は伊豆出身とした場合、駿河の戦国大名だった今川家に仕えた狩野景信となる。

 彼は室町幕府六代将軍である足利義教が富士山を見物した際、その図を描くように命じられたとされているが、当時の様子を詳細に伝えた記録にその名がなく、いささか信憑性が薄い。

 一方、上総出身説の場合、伊豆から上総に広がり、大野城(千葉県いすみ市)を居城に割拠した庶子家の一族となり、正信は狩野叡昌という武将の孫とされる。

 実際、叡昌の娘がスポンサーとなって建立された京都の本法寺に正信が描いた『日親上人(同寺開基)像』があり、彼女が嫁いだ足利長尾氏の菩提寺である長林寺にも彼の『瀧山水図』が残され、今では上総が有力。

 一方、南都興福寺大乗院の僧だった尋尊の日記(『尋尊大僧正記』)には当時の絵師のリストが記載され、「狩野 土佐弟子、在押上」とあることから正信が土佐派に弟子入りし、押上郷(奈良市押上町)に住んでいたことが分かる。

 のちに絵師を志す者が一様に狩野派の門を叩いたのと同じように、当時は土佐派と師弟関係を築くことこそがまさに、その第一歩だったのだろう。

 ただ、正信は必ずしも土佐派の画風に固執せず、京都の相国寺の僧だった季瓊真蘂に絵師としての才能を見出された。

 その彼は足利将軍家にも大きな影響力を持った政僧で、前述の尋尊の日記に「狩野」の名が記される一〇年以上前、相国寺雲頂院昭堂に観音及び、一六羅漢の壁画をしつらえ、それらはいずれも正信に命じたものだった。

 正信は季瓊の没後、その法嗣 (仏法の奥義を授けられた弟子)だった亀泉集証の後押しを受けたとみられ、五〇代に差し掛かろうとする頃、八代将軍を退いていた足利義政の隠居所だった東山山荘(いわゆる銀閣寺)の常御殿の一室を飾る『瀟湘八景』を描いた。

 また、同じ山荘内の東求堂仏間の阿弥陀三尊を囲む障子の『十僧図』も手掛けた一方、相国寺鹿苑院の蔭涼軒主の記した公用日記(『蔭涼軒日録』)などに、正信と足利将軍家や幕府の関係を示す話がいくつか残されている。

 たとえば、九代将軍の足利義尚が近江出陣中に二五歳の若さで病没した際、正信は葬儀に使用される肖像画を描いたばかりか、息子を亡くした母の日野富子から最後の雄姿を絵に記録するように発注を受けた。

 また、義尚の父である義政が亡くなった際にもやはり、葬儀用の肖像画作成を依頼された。

 ただ、その多くは史料上、確認できるだけで残っていない。

 それでも、彼がどのように絵を描いていたのかを知る手掛かりは残されている。

 蔭涼軒日録などによれば、前述の『十僧図』の制作時には画法の参考とするため、中国北宋時代の絵師の作品を将軍家の蔵から借り出そうとして手間取り、義政から描き直しを命じられた様子も記録されている。

 正信はこの義政の没後、幕府管領だった細川政元を新たなスポンサーに作画を続け、九七歳という長寿を全うしたと伝えられる。

 正信は前述のように当初、南都に工房を構えていたが、晩年に京都に出て、現在の京都御所北西角(烏丸今出川交差点)付近から西に入った路地裏に拠点を設置。その一角は息子の元信の時代、狩野辻子(辻子には横丁という意味合いがある)と呼ばれる。

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